挨拶が苦手という人は多いけれど、私は身体的に苦手です。
どういう意味かというと、難聴のため、声で挨拶されても気付けないからです。
“声が出せるなら問題ないのでは?”と 思った人もいると思いますが、人間関係は一方通行では成り立ちません。
自分から挨拶することはできても、不意に背後などから声をかけられると 聴こえなくて 無視したようになっていることがあるようです。
難聴は見た目では分かりません。
面と向かっての会話が出来ると、聴こえていると思われてしまうのは仕方のないことですが、無視したと勘違いされて 心の壁を作られてしまうのは、とても悲しいことです。
今日は、そんな挨拶についての体験談です。
■補聴器をしているのに、なぜ聴こえないのか?
今の私の耳は、補聴器を取ると殆ど音は聴こえません。
だけど補聴器をすれば音は聴こえます。
ここで、疑問が湧きます。
『補聴器をしているのに、なぜ、気付けないのか?』ということです。
私の場合は、聴こえていない当事者なので「なぜ、今の声に気が付かなかったのか?」というふうに考えることはできませんが、「声をかけた?」と訊いたら「うん」と言われるので、自分が気付いていないところで 声をかけられていることがあることは知っています。
そんな時、私も思うのです。
“この人の声は、今は聴こえているのに、なぜ 気付かなかったのだろう?”と。
いろいろ考えて出た結論は、脳の認識の問題だということです。
自分のことしか分からないので、自分のことを話しますが、私の場合は 音の聴こえ方に問題があるからのようです。
私の難聴は、感音難聴といって、音が正確に聴こえない難聴です。
おまけに大音量の耳鳴りが鳴りっぱなしです。
一般に難聴者は、よく聞き返します。
あれは音量が足りないというより、音が崩れているから聞き取れなくて聞き返していることが多いのですが、私の聴こえも酷いものです。
中等度の時に、すでに、男女とも 人間の声ではなくなっていましたから。
この聴力が 中等度半ばを越えた頃には、人の話は声で聴くのではなく、口の動きや相手の表情などを手掛かりに殆ど勘(推測)で聞いていました。
“聴こえの音質が劣化してしまうと、どうなるのか?”というと、私の場合は、雑音と人の声の違いが曖昧になりました。
人が喋っているという認識がなければ、人の声も雑音として聞き流していることがよくあります。
それに加えて、耳鳴りが非常ベル級の大きさなので、それも影響しているかもしれません。
だから、突然、背後から声をかけられても、脳は周辺の雑音と同じ扱いをするので、人が自分に話しかけたという認識を持てず、声をかけられたことに気が付かないのだと思います。
健康な耳の人は、「人間の声=人間の声」ですが、感音難聴の酷い人の場合、程度の差はありますが「人間の声=単なる音」で、人の声だと認識するためには 視覚による確認が必要になります。
因みに健康な耳の人でも、何かに夢中になっている(集中している)時は、声をかけても なかなか気が付かないことがあります。世の中は様々な音が溢れているので、自分に必要のない音は無意識に聞き流します。ある意味、それに似ているかもしれません。
違うのは、難聴者の場合は 特定の音を拾う能力が落ちているところに、音質の劣化(音の崩れ)が加わり、自分の名前を呼ばれても 自分の名前には聴こえないという致命的な問題を抱えています。そのため、音だけで気付くのは難しいのです。
なので、難聴者に気付いてもらうためには、肩をトントンしたり、その人の視界に入って合図する必要があります。
これは、私に限ったことではありません。
顔を見ながらの会話が普通に出来る人でも、背後からの声かけに無反応な難聴者は多いです。
難聴者には視覚情報が必要ということは、ぜひ知ってほしいことの1つです。
付け加えると、難聴者の多くは、大なり小なり 音が崩れているので、音声だけで正確に話を聞き取るのは困難です。
なので、これから話をするという時は、話し始める前に、注意を促してもらえると助かります。
そうしないと話していることにさえ気付いていないということにもなり兼ねません。
■無視されたと思われる悲しさ
挨拶したのに、無視された。
声をかけたら、無視された。
相手が自分の呼びかけに反応してくれなかった時、誰でもすごく嫌な気持ちになります。
それは、私も同じです。
自分がされて嫌なことは、私はしません。
だから、自らの意志で無視することはありません。
ところが、そんな思いとは裏腹に、現実は難聴の悪化により 声かけに気付かず 知らず知らずに無視してしまっているようです。
気付いていないだけなのに、無視されたと誤解されてしまう・・・。
これはとても悲しいことです。
実は、本人は気付いていないので、挨拶されたかどうかは定かではありません。
それなのに、どうして誤解されたと分かるのかというと、ある日、突然、何の前触れもなく、変化しちゃう人がいるからです。
一例を挙げると、新入社員で、にこにこ話しかけてくれていた人が、突然、声をかけても冷たい視線を向けるだけになったり、目を合わそうとしなくなったりといった変化です。
相手はやり返しているだけかもしれませんが、私から見れば、ある日、突然、豹変したように見えます。
“私、何かしたかなあ?”と、いくら考えても、何も浮かびません。
で、気付くわけです。知らないところで、無視しちゃったかなと。
そう考えると、相手の豹変も理解できます。聴こえないと知らなければモロに無視されたと感じるでしょうから。
だけど、無視はしていないんですよね。
そもそも、声に気付いていないから、いつ怒らせたのか、何に怒っているのかさえ私には全く分からないのです。
その後、私が難聴だということを その人が知ったところで、一度できた壁は簡単には取り除けません。
これも聴こえないが故の悲しさで、健聴ならば会話で一気に距離を縮めることができますが、会話に配慮が必要な身の上では、一旦 壁を作られてしまうと、自然に距離を縮めるのはとても難しいのです。
聴覚障害は コミュニケーション障害と言われる所以です。
今の私は、図太くなって、誤解されたままでも、たとえ悪口を言われていたとしても、“知らぬが仏”と 開き直って、あまり気にしなくなりましたが、最初の内は、どーんと落ち込みました。
自分が招いたこととはいえ、一度も自分の意志で避けたことのない人から、意図的に距離を置かれたりすると、やっぱり傷つきます。
無視しないように気を付けたくても、こればかりはどうしようもないんですよね。
どうしようもないと割り切ってはいるものの、聴こえなくて苦労しているのに、聴こえないことが原因で “感じの悪い人”レッテルまで貼られるのは、やっぱりやるせないです。
これは 私だけではないと思うので、お願いしておきます。
相手が難聴者の場合、普段の会話で聴こえているように見えても、視界に入っていない所から 声をかけられたら 気付けないということを 覚えておいてください。
■今の私がやっている精神的対策
進行性難聴の私は、自分の聴こえが劣化し続けているので、数日前まで聴こえていた音が聴こえなくなるということを繰り返しながら悪化しています。
なので、自分の聴こえの状態に慣れることがなく、戸惑うことの連続でした。
聴こえていた音が、聴こえなくなっていることに気付くためには、きっかけが必要です。
『聴こえない=音がしていない』なので、きっかけがないと分からないのです。だから、背後からの声かけに気付かなくなったのが いつからなのかは、自分のことだけど、私は知りません。
そんなんで、前述したような、突然 態度が冷たく変化する人が出て来たりすると、生きて行く自信をなくし、一時期は人と接触するのが恐くなったこともあります。
だけど、その精神状態では生きていけないので、今の私は 開き直って、人の反応はあまり気にしないようにしています。
今の私が心掛けているのは『挨拶』です。
聴こえずに無視してしまうことがあるのであれば、尚更、臆病にならずに挨拶しよう!という感じです。
相手が無視しても、取りあえず、朝は「おはようございます」。昼間にすれ違えば「お疲れ様です」。
これは、気が付く限り実行しています。
私も普通の人間なので、無視されると心がざわつきます。だけど、それ以上に 知らない内に、“無視する人間”というレッテルを貼られる方が堪えるので、ルールと割り切って挨拶します。
実際にやってみると、効果がないわけではありません。
知らない内に怒らせている人の“嫌い”圧に負けずに、挨拶し続けていると、少しずつ壁が溶けたこともあります。
人間関係を修復しようと考えてやっているわけではなく、礼儀としてやっているだけなので、無視され続けたとしても、精神的ダメージは小さいです。
知らず知らず私も相手を無視していたとしても、相手も同じなわけですから、少なくとも 私の中の「気が付かなくて(聴こえなくて)ごめんなさい」という気持ちは消えます。
なにより、顔をあわせたら必ず挨拶するようにしていると、相手からの挨拶に気付けなくても、“無視した”と思われる率は下がります。
ということで、私にとって挨拶は プラスしかないので、積極的に挨拶するようにしています。
ちなみに この挨拶もケースバイケースです。
自分が難聴だということを知っている人や、難聴だと知らせる機会のある人は別として、多くの場合、私が難聴だとわざわざ言う機会がありません。
会社では、打合せなどが発生するので、その時に難聴を伝えられますが、たとえば他部署で殆ど接触のない人や、ご近所さんなどの場合、挨拶だけで充分なので、わざわざ難聴だと伝えることはありません。
だけど、“挨拶しているのに、無視する感じの悪い人”みたいなレッテルは貼られたくないので、関係が薄い人には会釈するようにしています。
ご近所さんのはずだけど、どこに住んでいるか分からない場合でも、知っている顔だと思えば、軽~く会釈をしながら通りすぎます。
家の前で作業をしているご近所さんの後ろ姿にも、軽~く会釈しながら通過します。相手が振り向いた時のための会釈なので、気付かれないと分かっていてもします。
曖昧な人には、軽く会釈。
相手と目が合えば、しっかり会釈。
最初は怪訝な顔をされることもありますが、何度か会釈していると、相手も会釈してくれるようになります。
会釈は、聴こえる人も、聴こえない人も共通で使えるので、とても便利です。
聴こえないのに、声に気付くなんて、土台無理な話。
聴こえないがために誤解されていることを、いちいち気にしていたら、精神が持ちません。
相手が壁を作ったからと、私まで気にしていたら、更に厚い壁になってしまいます。
細かいことは考えず、知っている人には挨拶すると決めたことで、心は随分軽くなりました。
これからも積極的に挨拶するように心がけたいと思います。
今回も最後まで読んでくださりありがとうごいました。
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