ナンチョーな私の気まぐれ日記(2)「ちょっと寂しい難聴生活」

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ナンチョーな私の気まぐれ日記

今日も職場はあちらこちらで話をしている人の姿。
真剣な顔で打合せしている人、笑いながら立ち話している人、電話で長々話している人。

聴こえていた頃は、勝手に人の話が耳に飛び込んで来るので、「ここにあった書類知らない?」と聴こえてきたら「知ってるよ~」と反応したり、隣の人の電話の声に “うわぁ、えらいことになってそう” と察したり、誰かが叱られている内容を耳にして “やばっ、私もやっていたわ” とこっそり反省したり。
また、興味深い話や仕事の説明などが聴こえてきたら、近寄って行って勝手に参加したり、“なんで、皆、シ~ンとしているの?”と場の変化を敏感に感じ取ったり、聴こえるというのはとても便利だった。
とはいえ、こんなことは聴こえていれば、当たり前のこと。
あまりに当たり前過ぎるので、当時の私は便利だなんて思ったことはなかった。

さて、この当たり前がなくなったらどうなるのでしょう。
聴こえなくなるというのは、この当たり前が喪失するということです。
どうなるかは、たぶん機能が正常な限り想像はつかないと思います。
これは聴覚に限ったことでなく、どの器官でも同じで、私も耳以外のことは想像がつきません。
そりゃそうですよね。
あって当たり前だから特に深く考えることなく、その機能があること前提で未来を描いて生きて行くわけですから。
また世の中のしくみも、あって当たり前の機能を前提に構築されています。
なので、あって当たり前の機能を失うというのは、単純に機能を失うだけの問題で済みません。
人生そのものに大きく影響するので、これは経験してみないと分からないと思います。

ちなみに今の私の聴力は、補聴器を装着しても人の話を30%程度しか聞き取ることができません。
難聴の苦労は山ほどありますが、もしも「難聴の辛さを一言で表現してください」と言われたら、私は「孤独」の言葉を選ぶかなあ。
今日はその孤独についてちょっと話してみようと思います。

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■私を取り巻く環境

難聴といっても、症状や悩みは人それぞれです。
聴こえのレベルや、周りの環境によってその人の抱える悩みも違ってくるでしょう。
私は「孤独」を挙げたけれど、もしかしたら周りに難聴者がたくさんいる人は他の言葉を選ぶかもしれません。

ここに書くのは、あくまで私の話です。

簡単に私の職場環境を説明すると、私が勤めているのは、社員50人もいない小さな会社です。
規模が小さいこともあって 障害者雇用とは無縁で、私が障害者に認定されるまでは障害者を雇った実績は全くない会社です。

私が今の会社に入社したのは 難聴発症後でしたが、まだ補聴器無しでもかろうじて会話が可能だったので、皆と同じ条件で、普通に雇われ、働いていました。
最初の数年は順調に昇格もしていましたが、そのうち聴こえに限界が来て、交渉事などの仕事に支障が出るようになり、第一線から引かせてもらいました。
なので、ちょっと悲しいけれど、今の会社では出世は頭打ちです。
幸い、培ってきた専門知識で内勤に活路を見出し、今に至っています。

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■聴こえなくなると、友達が減る

さて、聴こえなくなるとどうなるかですが、会話が成立しないところまで聴力が落ちてしまうと、友達は減ります。
ランチだけ一緒に食べるぐらいの軽い友達とは綺麗さっぱり縁が切れました。
大人のお付き合いは、会話だけで成立している関係が多いので、そういう関係は会話不能になった時点で、まとめてド~ンと減ります。

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■人の本性が見える悲しさ

私が予想外にビックリしたのは、障害者になった途端(厳密にはスムーズに聞き取れなくなって第一線から退いた途端)、態度が豹変した人が現れたことでした。
親しいわけではないけれど普通に友達付き合いをしていた人の中から、音声会話が難しくなった途端に人を見下すような態度に変わった人が出てきたのは ショックでした。
この類の人と関わっていると ろくなことがないので、不愉快な態度の人とは距離を置くことにしました。
障害を持っただけで、見たくない人の本性を見せつけられたことは ちょっと衝撃で、悲しいことだと思いました。(この悲しさは世の中への悲しさです)

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■聴こえなくなると、話の輪に入れなくなる

上記のように豹変する人もいますが、多くの人は、これまでと変わらず接してくれます。
ただ同じように接してくれても、聴力が落ちている私は輪の中にいても超孤独です。
誰かの話がウケて 皆がドッと笑っている時、私もあわせて笑いますが、頭の中は “いったいどんな話をしたのだろう?” と思っていて、話には参加できていません。
体だけが参加している状態というのには、残酷な孤独さがあります。

私は元々、会話は聞くだけでなく、率先して話したいタイプでもありました。
それは今も同じだけど、聴こえないので話すタイミングがつかめません。
たいていの場合、“皆は何を話しているのだろう” とひたすら考え続けるだけで終わってしまいます。

耳が聴こえなくなると、輪の中にいても孤独なのですが、かといって輪の中にいない自分も仲間外れのような寂しさを感じるので、どこでどうしていようとも 音声会話の世界は聴覚障害者には孤独です。

余談ですが、私は寂しさに耐えられなくなって、そのうちネットで難聴者探しをはじめました。
難聴者の数は多いけど、探さないと仲間とは出会えないんですよねえ。
たぶん、気が付かないだけでどこかで遭遇していると思うのですが、お互いに見た目では分からないので、多くの難聴者は大なり小なり孤独だと思います。

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■楽しかった飲み会も地獄に

私はあまり飲めないのですが、聴こえていた頃は、飲んで大騒ぎするのが大好きでした。
率先して場を盛り上げるのも好きだったので、飲み会にはよく誘われました。
今は逆です。
飲みに行っても話が聴こえないので、話に参加できません。
会話ではいつも蚊帳の外。だけど体は参加しているので、つまらなそうにすれば周りに気を遣わせてしまいます。
だから皆の表情に合わせて、笑ったりうなずいたり同化しようと頑張ります。
おかしくないのに笑うのは疲れます。
うなずきながら聴こえている振りをしているけれど、話を振られたら聞いていないことバレバレで、何度かそれで失敗しています。
盛り上がった会話の流れで「**さんは?」と振られて「・・・・」。場の空気一変です。
この状況に遭うと、いたたまれない気持ちを通り越して、ドドーーーンと落ち込みます。
そんなんで私にとって宴会や飲み会は苦痛でしかないので、今はできるだけ参加を避けています。

とはいっても、元々は飲み会好き。
聴力さえ戻れば参加したいわけで、やっぱり人との交流が途絶えるのは寂しいものです。
でもこればかりは仕方がありません。
「筆談するから参加してよ」と言われて参加したこともあったけど、お酒が入ればもうはちゃめちゃ。飲みの席で筆談はハードルが高過ぎることを実感しました。
それに、多くの飲み会参加者は 会話でストレスを発散しています。音声でリズムよくやり取りしているところを自分が乱すのは心苦しいし、そう感じることが私には耐えがたいので、飲み会にはできるだけ参加しないようにしています。

将来、騒がしい場所でも、音声文字変換をしっかりしてくれる優秀なロボットやアプリが出来たら、参加しようと 科学の発展を心待ちにしています。

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■最後に

聴覚障害はコミュニケーション障害とよく言われますが、本当に寂しい障害です。
たとえば・・・
海で遭難して ある島に自分1人だけが流れ着いて、そこの島民に助けられたとします。
目が覚めると、聞いたことのない言語で質問を浴びせられます。
何を言っているのか言葉はチンプンカンプン。
言語が通じないので、知りたい情報も入ってきません。
言葉が通じなければ、状況もつかめないし、不安です。

極端に言えば、聴覚障害者の日常はそんな感じです。

身振り手振りを混ぜてもらえれば、話を理解できても、複雑な話までは聞き取れません。
見知らぬ土地に1人で出かけることもありますが、音声案内だけだと分からないし、道に迷ったら人に訊くという行動も音声以外で対応してもらえるだろうかと、いつも不安です。

コミュニケーション力が落ちると、人との交流のハードルは いやでも上がります。
普段平気そうにしている私ですが、心の中は寂しさでいっぱいなのです。

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[前回のナンチョー日記]
   ↓
ナンチョーな私の気まぐれ日記(1)「私の難聴」

[次回のナンチョー日記]
   ↓
ナンチョーな私の気まぐれ日記(3)「聴こえの崩壊 【声の話】」

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