からだのエッセイ 第5回
私は難聴歴だけは長いのだが、2年前に自ら難聴者に会いに出かけるまで、他の難聴者と接する機会なく生きてきた。もちろん祖母が難聴だったので全く知らないわけではない。だけど、自分自身が難聴に苦しむようになってからは1人で悩み、1人で必死にもがきながら生きてきた。
私の周りは、普段は健聴者しかいない。
私自身が健聴な時に 聞こえない人に対する理解が乏しかったように、周りの人も同じく聴こえの理解は低い。特に職場ではその傾向が顕著で とても辛いが、生活するためには働かないわけにはいかないので、そこは出来る限りの努力や工夫をして頑張っている。
だけどそれにも限界はある。
呼ばれても気付かないレベルまで低下した今は出来ない仕事が増え、お客様と対話するような仕事は外してもらわねばならなくなった。
それでも日々発生する打合せや会議は聞こえなくても内容を理解することを求められるので、心は毎日崖っぷち、追い詰められることもあるし、毎日が綱渡りである。
ここまで聴力が低下するとコミュニケーション手段として浮かぶのは「手話」である。
一度、覚えようとチャレンジしたことがあるが、周りに手話をする人がいないので挫折した。
使わなければすぐに忘れるし、苦労して覚えるならば全国共通で、これさえ覚えればどこでも伝わる手話を覚えたいと思ったのだが、手話には標準語が無かった。
標準語が無いというのは、一般に、必要性に迫られるか、おもしろいなあと感じない限り、なかなか本腰入れて覚えようという気にはなりにくいと思う。
日本語に方言があるように手話にも方言があるが、手話には方言しかないと聞いて、私の場合は「普段使わないのに、お引越しすれば また覚え直しなのか」と思って、やる気が萎えてしまったのである。
だが、今、再チャレンジする気になっている。
今回の再チャレンジは、難聴者に会って、便利そうだと思ったのがきっかけである。
私が今、交流している人達は、私と同じ中途難聴・失聴者なので、そのメンバーは失聴している人も含めて全員音声で話す。
だけど音声だけでは聞き取れないので、私以外は、簡単な手話を取り入れながら話をしている。
私はこれから手話を覚える段階なので、皆がどの程度の手話を使っているのかは分からない。だけど片言であっても手話が入ることによって重度の人も会話に参加できていて、これはすごいと思った。
それに、騒がしい飲食店で、難聴者十数人が集まったことがあるのだが、そこでも手話が役に立っていた。
結構煩かったので、席が離れていると、健聴な人でも大きな声で話すか、真ん中の人が伝えるなりしないと声が届きにくい環境だったのだが、席が離れている者同士で 距離をものともせずに手話で会話しているのを目撃して、なるほど手話なら見えさえすれば離れていても伝達可能なのだと、「手話すごい」「手話便利」、これだと「健聴者にも便利」と、俄然、手話に興味を持ったのである。
私が見た友人達の手話は、ほんとに片言だと思う。ガッツリ手話を使える人もいるが、殆どはサイン的に使う程度なので動きの量は、身振りの多い聴者より少し多いか同じ程度で、特に目立つほどでもないのである。
この程度の手話でも難聴者の会話は格段に便利になる上に、この程度の動きならば聴者も使う気になるのではないかと思ったのである。
もし、聴者も手話を覚えて、普段の会話に使うほどに普及したら、諦めていた聴者との会話も復活できるし、そうなればすごく嬉しいことである。
そんな思いがあって、私の願いを書こうと思ったわけである。
ちなみに、ここで語る手話の話は、言語の話ではない。
あくまで聴者も使う、聴者との共通サインという発想である。
すでに手話に馴染んでいる人には違和感のある的外れな夢に見えるかもしれない。この先、私も手話を学習して身につけてしまうと違う考えになるかもしれない。
だけど、手話に興味を持ち始めた人が何を考え何を思うのかは今しか分からない。そして手話に無関心な聴者の感覚に近いのも今で、私自身が手話に馴染んでしまってからでは、聴者の気持ち(立場)になって考えることはできなくなってしまうだろう。だから、少しでも健聴者に近い目線にある内に今の気持ちを書き残しておこうと思ったのである。
さて、自分の願望を述べる前に、かじりかけの知識だが、少し言語としての手話について触れておきたい。
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■手話には「日本手話」と「日本語対応手話」がある
聴覚障害者というのは、単に耳が聴こえないという機能的な問題だけでなく、人にとって大切なコミュニケーションに関わる障害のため、かなり複雑である。
私も最近まで知らなかったのだが、手話には「日本手話」と「日本語対応手話」の2つがある。
そして「日本手話」は日本語とは文法が異なる。
初めて2種類あると知った時、日本とついていれば日本語というイメージしか持っていなかった私は何が違うのか不思議だった。でも、考えてみれば「日本手話」は日本語を耳で聞くことのできない人達の間で生まれた言語なので、当然に日本語とは別物である。
一方、「日本語対応手話」は日本語に合わせて単語を並べる手話で、こちらには文法はない。
手話に種類があると知って、私が最初に思ったのは「標準語として覚えるならどちらがいいのだろう?」とうことだったが、この2つは全然別物で言語としての位置づけが全く違うと考えた方がいいようだ。
「日本手話」は耳が聞こえない人の中で 独自の文法を持って発展した 日本語とは全く別の言語と捉えるべきだろう。「日本」と表記されてはいるが、外国語のようなものなので、この手話の習得は難しい。
一方、「日本語対応手話」はあくまで日本語の補助ということになる。
一般に教える手話がどちらなのかは分からないが、生まれた時から手話に馴染んで育った聾者は「日本手話」が分かりやすいだろうし、日本語の音声言語と合わせて使うならば「日本語対応手話」が便利。そして日本語で育った人には「日本語対応手話」の方が使いやすいだろう。
そして、いろいろ調べたり聞いたりしていて、私が一番驚いたのは、聾学校が手話禁止だったことである。恥ずかしながら、私は聞こえない人が手話で学問を教えてもらえるのが聾学校だと思い込んでいたので、手話禁止は一部の学校の出来事だと思っていた。ところが現実は、数年前までどこの聾学校も手話を禁止し、徹底した口話教育(※1)をしていたらしい。全く聞こえない人も口話のみというのは、あまりに厳しい。
もちろん口話教育が悪いわけではない。
社会は聴者が圧倒的に多いわけだから、聴者とのコミュニケーション手段を持つことは普通に生活を営むためには必要なことであり、口話教育は大切だと私も思う。
口話教育を実施していた学校も、第一の理由は聴者社会で生きて行くためには口話を身につけるべきとの考えがあり、手話を許可するとどうしても子ども達は楽な手話に逃げてしまうから禁止したということらしい。だけど口話でどれだけ授業が理解できるというのか。もしも口話でつまずけば授業について行けないということにもなる。なので、やはり学科の授業を口話で行うことは問題が大きいように思う。
(※1)口話とは、相手の音声言語を読話(口の動き、顔の表情、話の場面等を総合的に捉えて相手の話を読み取ること)によって理解し、相手に伝える時は発話により音声言語で意思を伝えるコミュニケーション手段で、教育に「口話法」が導入されたことで、耳が全く聴こえない聾者でも言葉を話すことができるようになった。
一方、手話とは、手の位置や形、動きを使って意思を伝える言語的な特徴を備えた伝達手段で、日本手話は表情や首の傾け方など手の動き以外も使って表現する。
この問題は、単に口話を身につけた方が社会で生きやすいというだけの単純な話ではないようだ。「日本手話」が言語として認められていなかったから強制的に「日本手話」が奪われたと考える人も多く、聾者の中でも口話と手話に対する考え方や意見は割れるようである。
ちなみに今は自治体レベルではあるが、「日本手話」は言語だと認められるようになってきており、聾学校も手話を積極的に取り入れるようになっているようだ。
この辺りの状況や背景、過去の歴史などが絡むと、考え方も感情も人それぞれで、複雑過ぎて今の私には分からないことだらけだ。
ただ、今、私がここで話したいのは、聴者とのコミュニケーション補助(サイン)として簡単な手話や単語を共有できないだろうかという話で、あくまで音声日本語を聞き取るための補助手段の話である。文法が異なる「日本手話」は 聴者が簡単に取り入れられるものではないので、ここではこの話には触れないことにする。
以上のことから、もしかするとこれから私が述べることは「手話」という言葉を避けた方がいいのかもしれない。だけど いきなり造語を使えば何が何やら分からなくなるので「手話」という言葉を使うことにするが、ここで話す「手話」とは、あくまで単語レベルの話だと思っていただきたい。
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■健聴者も使いやすい全国共通の標準手話(単語)が出来て、それが広まることを願う
手話を使う人口はとても少ない。
使う人が少ない言語はよほど何か思うことがない限り誰も覚えようとは思わない。
だから手話は、聴者自らが進んで学ぶケースがとても少ないのが現状である。
現況では手話はほんの一部の人しか使わないので、その他大勢の人とのコミュニケーションには役に立たない。
だけど手話人口が増えれば、覚える人が増える可能性も高くなる。
そして、手話が日常で当たり前のように使われるようになれば、難聴者は聞き落としや聞き間違いがぐっと減り、聴者とのコミュニケーションが取りやすくなる。
だから私は、健聴者にも手話を使ってもらえるようになって欲しいと願う。
そのためには、現状のように標準語が無く、1つの単語にいくつもの手話がある状態は普及の妨げになると思う。
多くの聴者に利用してもらうためには、全国どこでも通用する標準語を作る必要があると考えている。
(余談)昔、初心者向けの手話講座に参加してみたことがある。すると1つの単語の手話を説明するのに「これでもいいし、これでも通じます。他にもあります」など、複数の手話が説明されて「じゃあ、どれを使えばいいの?」と混乱したことがある。更に狭い地域単位で表現が異なる場合も結構あるらしく、住んでいる市が異なる講師同士が「**さんの所は確か違いましたね。私の所はこういうふうに表現するけど、あなたの所はどうするの?」などとやり取りしているのを見て、言語としてはとても曖昧だと感じ、こういうのを見るたびに やる気は萎えた。
言葉は、普通は自然に覚えていくものなので、その言葉を使う当事者間で不便を感じることはないだろう。だけど母語とは別に新たに学ぼうとしている人にとっては、小さな地域単位でバラバラの手話が存在している状態は分かりづらく、とても使いにくいと感じてしまう。
一般に手話がメイン言語の人は非常に少ない。そして、聴こえる人の方が多い限り これからもずっと少数の状態が続く。すると自然に任せていてはいつまで経っても狭い世界の中でしか通用しない小さな言語のままである。それでは未来への希望が見えない。
私は、聴者と繋がるサインであれば、手話にこだわっているわけではない。
だけど既に手話という便利な言語があり、聴覚障害者や一部の聴者にそれが馴染んでいるのであれば、新たにサインを作るよりも、その中の手話単語を聴者との共通サインとして使う方が、手話を使う聴覚障害者にとっても便利だし一番早道だと思った。
とにもかくにも、私は聴者にも手話が広がって、手話に馴染む人口が増えることを望む。
そのためには、何度も言うが、手話の標準語化は必要で、未来のためにも絶対に着手すべきだと思う。
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■聴者への手話普及活動について
聴者の多くは手話を覚えることなど考えたこともないだろう。
そして、体を動かして話すことに、抵抗を感じる聴者が多いのも確かだ。
私自身も手話を使うのは気恥ずかしい。
だけど、聴者も「ごめん」「バイバイ」「OK」など、サインレベルの動作は使う。
だから、便利であれば手話も利用してもらえる可能性はある。
全てを手話で話してもらうことを聴者に求めることはできないが、単語レベルなら使ってもらえる可能性は高い。
体で表現することが苦手な私も、ちょっとしたサイン程度の手話ならばさほど抵抗はない。
たとえ 片言の手話であっても使う人が増えれば、それだけ定着する率が高くなる。そしてほんの片言であっても音声のみの会話に比べれば、聾者も難聴者も今より格段に会話が楽になると思うのだ。
まず普及ということで課題になってくるのは、今述べた動作への抵抗である。日本人は元々感情を表に出すのが苦手な民族で、欧米人に比べると話す時の体の動きも少ない。手話を使ってもらうためには、この辺りの民族的な抵抗感を低くする必要がある。
この手話への抵抗感を下げ、日常で誰もが気楽に使えるようにするには、学校教育の中に月に1回でも良いので、いや年に1回でも良いから手話の時間を授業の中に取り込んでもらえることが早道である。子どもには偏見がなく、面白いか面白くないかで反応するので、この時期に手話に親しんでもらえたならば使う抵抗感も下がり、聴覚障害者との共通言語として根付く可能性はとても高くなると思うのである。
現在すでに学校で手話を教える自治体もあると聞く。そういう動きはとても嬉しいことである。
ちなみに手話を覚える健聴者は近年増えているらしい。通訳などの福祉に留まらず、外国語感覚で興味を持つ人、手話歌を楽しむなど聴者自身の趣味として興味を持つ人もいる。それでも日常で当たり前に使われるようになるにはまだまだ道のりは遠い。
今もまだ、手話といえば聴覚障害者の物との認識が強いが、今後は手話は万人の物との認識に変わればいいと思う。
そうなることが一番聴覚障害者のためにもなる。
現在日本には約36万人(※2)の聴覚・言語障害者(児)がいる。
(※2)参考:厚生労働省 平成18年聴覚・言語障害児・者実態調査
これは主に手帳を持っている人の数で、多くの軽度~中等度難聴者は含まれていない。
ここに含まれない 軽度~中等度の難聴者の数は遥かに多い。
その中には聞こえないことをひた隠しにしている人もいる。
だけど当人は不便なはずなのである。
聞き返しに聞き間違い、難聴ならばそれは避けることのできない現実で、もしも皆が手話を使うようになれば、身体障害者手帳がもらえない人もフォローされるし、カミングアウトしたくない人も自然にフォローされる。また、手話を使いたい人は周りを気にせず手話を使えるようにもなる。
手話をはじめて見る人は、当然ながら最初は手の動きが何を意味するのか分からないだろう。だけど目の前で音声とともに繰り返し使われる内に だんだん分かってきて、やがては覚えてくれると思う。もしも便利だなと思えば積極的に覚える人も増えるだろう。少なくとも難聴者に遭遇した時に、手話を使ってくれる可能性は格段に上がると思う。
目にする機会を増やすことが一番大きな普及活動になると思うのだ。
ただ、いきなり聴者に手話を使うなんてことは基本的には誰もしない。耳が聴こえないことを伝えるために手話をわざと使う人はいるがそういう人は極めて少ない。やはり一般に、手話を必要としていない聴者にいきなり手話を使うというのは、かなり勇気がいることなのである。
だから、使うハードルを下げるために、できれば 国やマスコミが主導して「今日から手話サインを使いましょう!」と全国に号令をかけてくれたらとても有りがたい。
手話を使う目的が全国民に理解されたならば、堂々と普段の会話の中で手話を使うことができる。
そして、聴者のサインとして根付いてくれたならば大成功である。
現在どれぐらいの人が手話を知っているのかは分からないが、現実は、難聴者でさえ手話を使っていない人の方が多い。
一斉に使い始めることになった時、手話を使える人が少ないのでは、手話を浸透させる前に挫折してしまう。
なので、普及のための活動の一歩は、難聴者が積極的に手話を覚えるところからとなるだろう。難聴者の中には私は困ってないからと逃げ腰になる人もいるかもしれない。だけど聞こえないことの不自由さを想像できるのは難聴者しかいない。難聴者自身が未来を変える努力をしなければ、誰がわざわざ面倒くさいことをするだろうか。今までは一部の人達が頑張って社会に働きかけて前進してきたが、それを全員が一斉に働きかけたらもっと早く、もっと良い形に社会を変えていくことができるはずで、そうなるべきだと思うのである。
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■まとめ
*聴者とのコミュニケーション強化のために、聴者に手話を広めたい。
*聴者に覚えてもらうためには、聴者が使いやすいものでなければならない。だから手話と言っても、普及に適しているのは単語や簡単な手話程度で、本格的なものは適さない。
*そして、普及させたいのは、全国共通の手話単語(サイン)や簡単な手話表現。
*聴者同士でも、声を出せない場や、離れた場所での会話に使うなど、万人にとって便利なコミュニケーションツールになって欲しい。
*聴覚障害者は、口の動きとサインを見ながら相手の話を聞き取っていくことになる。
普及活動の流れは以下。
[1]手話単語の標準語化(普及させる手話サインの設定)
[2]-(1) 標準語ができたら、まず難聴者など当事者や関係者が単語を習得。(全部を一度に覚える必要はない。聴者に使って欲しいと思う単語から覚えて使っていけば良い)
[2]-(2) 学校の授業の中で手話を取り入れてもらい、子ども達に手話に馴染んでもらう。同時に普段から手話を使うことを促す。
[3]標準語化された手話を、全国もしくは自治体単位で、一斉に日常会話に取り入れる活動を始める。
どの段階も国が主導してくれると全国足並み揃えて活動ができるので一番望ましいのだが、国が動かないからと諦めねばならないわけではない。ただ[1]の標準語の設定だけはどうしても全国レベルで取りまとめる必要があるので、ここをどうするかが一番の難関となる。[2]以下は自治体単位で多少時間差が出ても問題ない。
これは大変なことではあるが、決して不可能な話ではないと思っている。ただ現実問題としては国が動かなかった場合、聴覚障害関係の各団体が同じ意識を持って共同作業ができるのか最初の一歩からして不安はある。
多分、無知だから書けたようなものという気もしないでもないが、夢や理想なくして実現もないので、後で相当恥ずかしい思いをするかもしれないが、思い切って述べてみた。
ただ、あくまで今の私が思うことで、もっと良い案があれば、それが実現すれば良いと思う。
未来の聴覚障害者が少しでも暮らしやすくなるために、とにかく世の中が良い方向に動くことを願う。
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■最後に
耳が聞こえないというのはコミュニケーションに大きく影響するため、同じ聴覚障害者でも母語が異なるなど複雑な背景が生まれる。
だけど、どの障害者も聴者とのコミュニケーションは避けて通ることはできない。
これから生まれてくる未来の子ども達や、ある日突然聴力を失う人達など、これからも次々と耳の障害を負って苦しむ人は出てくるわけで、未来の人達が少しでも暮らしやすい社会にするためには、今を生きる私達が協力し合って社会を少しでも良くする努力をしたいものである。
大切なのは、皆が、未来に目を向けて考え行動することだと思う。
そして、立場や症状が異なる聴覚障害者や難聴者が、皆一丸となって社会に働きかけていけば 世の中を少しずつでも住みよい世界に変えて行くことはできると思う。まずは一致団結を願う。