安楽死ではなく、生きる希望を持てる社会を望む

スポンサーリンク
からだのエッセイ

からだのエッセイ 第12回

二人の医師がALS(筋萎縮性側索硬化症)の女性を安楽死させた疑いで逮捕されたというニュースを見て複雑な気持ちになりました。
いろいろな意見があると思いますが、私も思うところを書いてみたいと思います。
安楽死については、基本的に私は反対の立場です。
理由は、私の考え方が この世のカラクリ(空想物語)「私たちは自分で自分の人生・境遇を選んで生まれてきた」でも書いたように、人生を生き抜くことを前提に生まれたと考えているからです。
でも、それは私の勝手な思いであり、安楽死については今後議論を深めていかねばならない問題だと思っています。
・死期が迫り、その日を迎えるまで耐え難い強烈な痛みに苦しみ続けるだけだと分かっている人に、我慢させることが本当に正しいのかという疑問。
・植物状態で、ただただ延命のためだけにベッドに繋いで生きてもらうことが、本人のためになるのかという疑問。
いろいろな疑問が浮かびます。
医学の発展で、今は無理やり寿命を延ばすこと(延命)も可能になっています。
その中で、患者の意思より家族の意思の方が優先されて、患者の尊厳が置き去りにされている問題もあります。
生き方を選ぶ権利があるのと同じく、死を目前に控えた人が、自分の死に方を選ぶ権利もあると思うのですが、なぜか死ぬ方は本人の意思より家族の意思が優先されることの方が多い気がします。

だけど、患者の思いが大事なように、家族の思いも大事で、どちらを優先するのかは決めにくいところがあります。
患者の中には、自分は延命を望んでいなくても、家族がそれを望むなら家族に任せるという人もいます。
病気が苦しいからではなく、家族に迷惑をかけたくないから早く逝きたいと考える人もいます。
延命の問題でさえ、患者と家族を切り離して考えることはできません。ましてや安楽死となれば、これはもっとハードルの高い問題になります。

ちなみに、ALSの患者さんの安楽死の事件に敢えて触れたのは、安楽死の良し悪しを語りたいからではありません。
重い病気や障害の苦しみは当事者にしか分からないとよく言われますが、それは身体的苦痛だけでなく、精神的苦痛も大きいからで、そのことを考えるよいきっかけになると思ったからです。

スポンサーリンク

■ALS(筋萎縮性側索硬化症)

ALS(筋萎縮性側索硬化症)とは、簡単に説明すると、筋肉が思うように動かせなくなって筋肉が次第にやせていく病気です。手足・喉・舌の筋肉や呼吸に必要な筋肉までもがやせて力がなくなるため、徐々に身体の自由を奪われていきます。
進行には個人差がありますが、発症すると手足がうまく動かせなくなったり、思うように話せなくなったり、食べ物を飲み込むのが難しくなったりします。そして、更に進行すると呼吸ができなくなるので、人工呼吸器の装着で延命するか否かの選択を迫られます。
ALSの発症は高齢者に多いのですが、働きざかりの世代で発症するケースも少なくなく、現在参議院議員として活動されておられる舩後靖彦氏も40代で発症して現在呼吸器を装着しながら議員の仕事を頑張っておられます。

ALSの症状に戻りますが、最初の段階での症状には2タイプあるようで、手や足に力が入りにくくなる場合と、舌や口が動きにくくなる場合があるようです。
基本的に、ALSは運動神経系が損なわれる病気なので、考えたり感じたり覚えたりする中枢機能や、視覚・聴覚・嗅覚・味覚・触覚の五感は維持されます。
また自律神経も維持されるので、内蔵機能や、尿意や便意の感覚も残るようです。
目を動かす機能も維持されるので、最後は目の動きによる意思疎通を図ることが多いです。

進行のスピードは個人差が大きく、短期間で急速に進行する人もいれば、10年以上にわたってゆっくり進行する人もいて、一概に数年後にこうなりますとは言えない病気です。
今のところ根治させる方法がないため、患者は進行に怯えながら、その時々のステージを乗り越えて行かねばならず、それはとても過酷な人生だと思います。
症状が進行すると、やがてやってくるのが、人工呼吸器の装着です。ALSの患者さんはこの段階で、自ら生きるか死ぬかの選択を迫られます。
人工呼吸器を装着しなければ、死に至ります。
装着すると、途中で取り外すことはできません。
健常ならば、取りあえず生きてみて、後で考えようという曖昧な選択ができますが、体の自由が利かないALSの患者さんの場合は、完全な二者択一で人生を選ばねばなりません。
逃げ道のない辛い選択です。
ALSの苦しみは、動けないことや、思い通りに意志を伝えられないといった苦しみです。全く動けなくなっても意識は鮮明で、頭の中は健康な人と同じように常に働いているのですから、想像するだけで地獄の苦しみです。

今回、安楽死を依頼した50代の女性は40代に発症したと聞きます。
ツイッターに「屈辱的で惨めな毎日がずっと続く。ひとときも耐えられない。安楽死させてください」と投稿していたようですが、その気持ちは痛いほど伝わってきます。
たった1つの機能を失うだけでも、そのハンディキャップはとても大きく、その惨めさと屈辱を耐え難いと感じることがあるのですから、身体のコントロールを全て失う辛さは言語に絶します。

だけど、だから安楽死が正しいのかというと、やはりその選択が正しいとは思いません。
なぜなら、ALSの人が皆同じ選択を望むわけではないからです。
では、なぜ屈辱に耐えられなくなるのか・・・、それは生きる気力となる目標も希望も見いだせなくなるからだと思います。
人工呼吸器を装着するかしないかを選択する時、患者はものすごく葛藤すると思います。人間は本能的に死を恐れます。恐いし、親しい人たちとのお別れはとても寂しいはずです。それでも装着を拒む人は、将来に希望が持てない、頑張るのに疲れた、これ以上 家族に負担をかけ続けたくないという人が多いようです。
一方で、人工呼吸器の装着を選んだ人は、覚悟を決めて生きている人が多い印象です。

スポンサーリンク

■体が不自由でも自分が誰かの役に立っているなら頑張れるかもしれない

最期まで頑張って生きようとする人と、途中で放棄してしまう人との違いは何なのでしょうか。
重度の障害者の場合、それは人におんぶになっているだけの人生の辛さのように思います。
自分が社会に必要とされていると感じるならば、少しは違った選択ができるのではないかと思います。
人は自分の役割があることを自覚できるから、辛くても頑張って生きて行けるのだと思います。

スポンサーリンク

■車いすの物理学者ホーキング博士(1942-2018)を技術で支えた人たち

ALS患者で有名な人に、イギリスの物理学者、スティーブン・ホーキング博士がいます。
学生時代(20歳頃)にALSの診断で余命宣告を受けましたが、途中で進行のスピードが弱まり、その後50年以上研究を続け、偉大な功績を残しました。

ここでホーキング博士のことを取り上げたのは、ALSでも立派になれるという話をしたいのではありません。
博士がALSだから残したものに興味を覚えたからです。
それは、周りのサポートと、それにより生まれる技術です。

学生の時にALSを発症したホーキング博士は、カスタマイズしたPCを使って研究を続けていました。
博士が天才であっても、不自由な体で研究を続けていくのは大変だったと思います。
身体の動きの自由を失うというのは、人の何倍もの無駄な時間を費やすことでもあり、その状態にめげない精神力を維持するのは並大抵のことではないからです。

進行がゆるやかだった博士が声を失ったのは、1985年40代の時です。肺炎で危篤状態に陥り気管切開したため声を失いました。
その後、発声の代わりに、単語カードや眉の動きによって文字を入力するシステムを使うようになりますが、コミュニケーションには速度も重要です。
いろいろな人や会社の協力を得て、コミュニケーションの改善を試みます。
だけど博士の病状はゆっくりでも進行しているので、やがてどのシステムも使えなくなっていきます。
親指の動きを使った操作ができなくなると、頬の動きを感知して動かす技術が開発され、しばらくはそれを使っていましたが、それもやがては難しくなります。
博士はインテルに相談しました。
インテルは専門家チームを結成し、博士を支えることにしました。
はじめてインテルのチームが博士に会った時は、博士の入力スピードは30語のあいさつに30分かかるというスピードまで落ちていました。
このスピードを聞いただけで、博士が根気よく頑張っているのだということが分かります。
博士が使える技術の開発はとても困難で、試行錯誤が続きます。
また、博士が求めるレベルは高度で、ただ伝われば良いというのではなく、正確に伝えることを求めましたし、自分の声で話したいとの望みも持っていました。
インテルはそれらにも応えていきました。
そうして出来上がったシステムで話す姿は、テレビ番組でも放送されていたので、その姿をご存じの方も多いのではないかと思います。

生身の人間の問題解決を試みるというのは、想定と異なった結果になることも多く、また、博士から出てくる高度な要求に応えようとすることで、新たな技術やアイデアが生まれていきます。
そうして生まれる技術やアイデアは、別のことにも応用できるので、障害者の不便を補う技術の開発は日本でも、もっと積極的に取り組んで欲しいものです。
ちなみに、博士が使っていたシステムと同じ技術のソフトウェアは、現在無料公開されています。

スポンサーリンク

■誰もが生きる気力を持てる社会であってほしい

私は中途の聴覚障害なのですが、健聴だった若い頃は、強いことに憧れて、人の役には立ちたいけど、人の世話にはなりたくないと思っていました。なので、聴覚を失った時は、人の役に立つどころか、簡単な情報を得るのにも人に頭を下げねばならないことに、すごく落ち込んだ時期がありました。
だから私は安楽死に反対の立場ですが、自分がALSの当事者だった場合、それを乗り越える自信は全くありません。なので、当事者に乗り越えろとは口が裂けても言えません。

でも周りは意識を変えて欲しいと願っています。
難病で自由を失っている患者や障害者には、それまで生きてきた経験と知識があります。
目の前にいる障害者の頭の中には素晴らしい知恵とアイデアが詰まっているかもしれません。
障害者は援助が必要なだけの存在ではありません。
体が機能していなくても、頭が機能していれば、その人にしか出来ないことはあるのです。
なので、どうすればその知識と経験を活かせるのか、そういう視点で不自由な人と接することが大事なのだと思います。
生きるためのサポートとは、単に体のお世話をすることだけではありません。人生に灯りをともすお手伝いをすることなのではないかと思います。
そういう意識を持っているならば、サポートする方もされる方も、間違いなく未来に良い影響を残すことができると思います。

患者や障害者が惨めな思いをする社会は間違っています。
皆が希望を持って生きていける社会であるべきで、誰もが自分の役割を持って生きて行けることが大事だと思います。
患者や障害者は、不便のスペシャリストでもあり、その立場でしか分からない不便をいっぱい知っています。そして、その人にしか思いつけないアイデアの種もいっぱい持っています。
そういうものがもっと活かされてもいいような気がするのです。

私たちがまず取り組まなければならないのは、安楽死の善悪を問うことではありません。
それよりも、誰も絶望することなく生きていける社会にすることの方が大事だと思います。
人を蔑んだり差別したり、そういう意識は変えて行かねばなりません。
誰でも先のことは分かりません。
今は健康でも、この先ずっと健康であり続ける保証はどこにもありません。
突然不治の病を発症するかもしれないし、事故で障害を負うかもしれません。
身近な人が難病で困ったことになるかもしれません。
そういうことになった時、自分が困らない社会を皆で団結して目指したならば、今より生きやすい社会に変わるのではないかと思います。

タイトルとURLをコピーしました