差別の心が消えない限り、差別用語が無くなることはない

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ひとりごと

突然、差別用語の話をしたくなった。
いつの間にか普通の言葉が差別用語にされていることが増えたからである。
差別用語は私も不快なので聞きたくない。
だけど差別用語と思えないものまで差別用語になっているのには驚く。

差別に聞こえるのは差別意識があるからで、差別意識が無ければそもそも差別用語なぞ存在しないはずである。
だから差別用語が増えるというのは あまり良いことではない。差別に神経質な人が増えて 何でもかんでも差別と結びつけるということは差別を育てているのに等しいからである。
現に差別意識の無い人は差別だと気づきもしない。差別だと説明されて初めて悪い感情を覚えるのである。

差別用語とされているものには大きく分けて以下の3つがあると思う。
1.元々差別するために出来た用語
2.元々は普通の用語だったのが、後に差別に利用されて意味合いが変わってしまった用語
3.今でも多くの人が日常で普通に使っていて、どこが差別用語なのか分からない用語

1と2は差別用語に認定されても仕方がない言葉たちだ。
だけど3はどうだろう。
ウィキペディアで差別用語の例を見てみると、「板前」や「坊主」、「アル中」や「ニート」「初老」など、普通に使われている言葉が入っている。個人的には「板前」などは格好良いと思っているので、なぜ差別用語の中に並べられているのか不思議でならない。

差別は人の心が生むもので、どんな言葉でも差別意識を持って吐けば差別用語になってしまう。
例えば「先生」や「王様」という用語は差別用語ではないが 皮肉や揶揄によく使われる。親しみを込めた揶揄もあれば、完全に悪口で使われている場合もある。そういうふうに使える言葉というのは使いようによってはいくらでも差別用語に育て上げることはできるのである。まあ、さすがに「先生」や「王様」が禁句になるとは考えにくいが。
要は使う人の意識の問題なのだ。

一体、誰が、言葉ばかりを悪者にする風潮を高めているのだろう。
言葉は人が意志を伝えるための道具であって、言葉そのものに悪意はない。
言葉が悪意を持つのは、使う人の心に悪意があるからで、言葉にどういう意味が宿るかは使う人の意識次第なのである。
悪意を持って発すれば、どんな良い言葉も、悪意のある言葉に変容する

少し自分のことを話すとしよう。
私は障害者だが、「障害者」に使っている漢字も差別だと思っている人がいる。
差別だと感じている人は、「害」の文字に反応しているようだが、私は障害者の「害」が「障害者」を指しているとは思っていない。私が「障害者」という言葉に感じるのは、障害(不便)を抱えながら この社会で生きて行くというのは「障害物競走の障害物を乗り越えて進むような困難さがある」という感覚で、そういう不便を抱えているから障害者というのだと思っている。
障害物が無ければ1分で走れるところを、障害物があることで5分も10分もかかってしまったり、どうしても乗り越えられず 何度もチャレンジせねばならなかったり、そういうふうに捉えているので、私は「障害者」という言葉は心情的にピタッと来るから全然不快ではない。
むしろ、差別だと大騒ぎする人がいると「この人は障害者を差別の対象だと思っているのかな?」と悲しい気持ちになるほどだ。
私は障害者の仲間入りをする以前から、障害者という言葉に何の疑問も感じたことはない。人や物に名前があるように、単なる名称だと思っていたし、そういう人は多いと思う。
それが、ネットでいろいろ調べている内に、「障害者」に「害」を使うのは差別だから「障碍者」や「障がい者」と書くべきだというのを目にして、そんなふうに思っている人がいることに少なからずショックを覚えた。
まあ、これが障害者本人が言うのであれば分からなくもないが、意外にこの文字に不快感を示すのは健常者に多い。
障害者が邪魔な存在だという認識を持っていなければ、そういう考え方は生まれないと思うので、そういうふうに感じるということは、その人の心の中にそういう意識が無意識にでもあるということなのだろう。
ちなみに 障害者の中にも「害」は嫌だという人もいるかもしれないが、私が知っている人達は、そんな文字にこだわるより 現実の差別の方を無くす方に力を注いでくれた方がいいと言っている。名称をごまかすことで パッと見て何のことか分からなくなることの方が問題だという人もいる。
障害者が一番求めているのは、汚いものにフタをする(見たくない物を見えなくする)ことではなく、どんなことに不便を感じているのかどんどん知ってもらって理解してもらうことである。そうでなければ、社会から置き去りになってしまうからだ。
これはどの差別においても同じだと思う。差別する心を見えなくするのではなく、差別する心自体を無くすべきだろう。

繰り返すが、差別用語は、使う人・聞く人の心が生むモノである。
差別用語ではないのに差別用語に見えるというのは、その人の心の中に 良くも悪くも差別の心が存在しているということだ。
差別の心が無くならなければ、言葉狩りは永遠に続くだろう。
使えなくなった言葉の代わりに、他の言葉が犠牲(代用)になることだろう。
何度でも言う。差別の心が無ければ、差別用語は生まれない。

そして、そのことに社会は気づいて欲しい。
「差別だ」「問題だ」と大騒ぎすることによって、差別を無くすどころか、逆に差別を拡散しているのだということに気づいて欲しい。
その言葉を差別だと言うからには理由がいる。それを説明することによって、そういう差別があることを知らなかった人に「こういう人も差別の対象ですよ」と言っているようなものなのである。
多くの差別は知らなければ生まれない。教えるから生まれる。そして一旦生まれた差別意識は言葉を無くしたところで消えはしない。
差別を無くしたいならば、まずは自分の心に潜む差別の心に気づいて欲しい
そして、その差別の心を無くすことに全力を注いで欲しいのである。
言葉よりも現実の差別が無くなることを私も願う。
もちろん私も努力する。
偉そうなことを書いたが、差別の心を全く持たない人間なんていない。
私の中にもたくさんの差別の心が育っている。
不快感が差別を生むので、油断をすればすぐに新たな差別の心が芽生えもするだろう。
だから常に悪い感情に溺れてしまわないように努力せねばならない。
そして、知ってしまった差別の心を無くすための一番良い方法は、対象である相手を正しく知る努力をし、相手の立場に立って 考えてみることだと思う。一旦考えてみて よくあるのが、相手の言動が悪いとの結論に至るケースだが、対象を責める前に 相手は何故そういう言動・反応を示すのかその理由を考えて欲しいと思うのである。どこかにほんの少しでも共感するもの、気持ちを理解できるものが見つかれば、少なくとも差別意識で相手を見ることはなくなるだろう。
分からないことを分からないままにしていると 不快感は取り除けないし、不快感の理由が不鮮明だと差別意識が消えることもない。だから目の前の不快から逃げずに、知り尽くす努力をすることが大事だと思うのだ。そうすることで新たな認識が生まれ、見方も変わる。

差別用語に過敏に反応する人は、ぜひ自分の心に問うて欲しい。
「なぜあなたはその言葉を差別だと感じるのでしょうか?」
その理由こそが あなたが対象に対して抱いている真の意識なのです。

(補足)
誤解のないように補足しておきます。
歴史的に差別用語として使われてきた言葉や耳障りな言葉は、明らかに差別用語です。本人が何とも思っていなくても、不快に感じる人が多いので使ってはいけません。
ここで話をしたのは、差別用語ではないのに差別用語に仕立て上げられていく言葉の話です。
差別用語を使ってはいけないと声を上げる人は 大抵の場合 善意で言っているので、それが差別の種を撒いているとは微塵も思っていないことでしょう。
善意の拡散は、悪意の拡散よりも、その行為を責めにくいだけに、ある意味タチが悪いかもしれません。
だからこそ、用語にこだわる前に自分自身の心に、なぜそのように感じるのかを問うて欲しいと思うのです。

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