ナンチョーな私の気まぐれ日記(42)優しさって何だろう

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ナンチョーな私の気まぐれ日記

世の中には様々な人がいます。
冷たい人もいれば、優しい人もいます。
学生の頃、本当の優しさとは何だろう?と考えたことがあります。
上辺だけ優しい人が多いなと感じたからでした。
逆に、普段の行動には微塵の優しさも感じられないのに、困った時にさり気なく手を貸してくれる人がいたりします。
私はこういうのが真の優しさのように感じるのですが、なかなか普段の行動で本当の優しさなどは見えてきません。
だから、相手を思っての厳しい言動が“冷たさ”に映ったり、上辺だけの優しさに感動したり、表面的なものに左右されてしまいます。

平穏な日常では、優しさが“ふり”であろうが“真”であろうがあまり気になりません。
親切な行為に助けられ、優しい言葉に励まされることも多いですから。

だけど、災害や障害など、極度に困った状態になると話は別です。
上辺だけの言葉に追い詰められたり不快になったりもするし、押しつけの親切が迷惑になることもあります。
また、ほんとに困った状態になった途端に、親切だったはずの人が手の平を返すこともあれば、その逆に普段は知らん顔の人が助けてくれることもあり、平穏な日常であれば見ることのできない真の姿を見ることもあります。

被災経験のある私は災害の話もしたいけれど、今回は障害の話に絞ります。

障害を負うと、どうしても障害の部分を人に助けてもらわねばならなくなります。
健康に生きている時には深く考えなかった人の言動に心が大きく揺れることもあります。
障害を負うと、人の優しさや親切が身に染みることもあれば、その逆もあります。
今回はそんな話です。
少し愚痴っぽくなるかもです。

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■『優しい』の意味、『親切』の意味

優しいと言っても、その感じ方は人様々で、また『優しい』自体が持つ意味も幅広いため、辞書を引いてみました。

私が持っている古い広辞苑の【優しい・恥しい】の所には以下の意味が並んでいました。
①身も痩せるように感じる。恥ずかしい。
②周囲や相手に気をつかって控え目である。つつましい。
③さし向かうと恥ずかしくなるほど優美である。優美で風情がある。
④おだやかである。すなおである。おとなしい。温順である。
⑤悪い影響を及ぼさない。
⑥情深い。情がこまやかである。
⑦けなげである。殊勝である。神妙である。
⑧(「易しい」と書く)簡単である。容易である。わかりやすい。

たくさんあります。
この中で、私は①や③の意味はピンと来なかったので例文を見たら①も③も古文が例文に挙がっていました。

そのほかの意味を読みながら、いろいろな優しいが浮かびました。
見た目が優しい人もいるなあとか、性格が攻撃的ではない人に優しいを使うこともあるなあとか。
ちなみに⑤の例文は『肌に優しい洗剤』でした。

この中で、今回取り上げている『優しい』の意味に近いのは⑥番かな。⑥番の例文には『優しい言葉をかける』が載っていました。なんか軽いなあと思ったけど例文としては無難です。
ネットなど 他もいろいろ見てみると、おそらくですが、多くの人が『優しい』で浮かべるのは「他人に対して思いやりがあって、情がこまやか」という意味ではないかと思います。

『親切』の意味も確認しました。
『親切』の意味は、「人情のあついこと。親しくねんごろなこと。思いやりがあり、配慮のゆきとどいていること」と ありました。

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■私の難聴

話を進める前に私の耳の状態について少し説明します。
今の私は障害者です。
20代半ばで進行性難聴を発症し ゆっくり進行してきたため、難聴歴は長いけれど、障害者の認定基準に達したのはそんなに昔のことではありません。
ちなみに発症時の難聴度は軽度だったので、その後も私はずっと難聴という病気と闘っているという感覚だったので、私の頭に障害が浮かんだのはずっと後のことでした。

現在と発症時の聴こえの差は、感覚としては健聴と失聴ほどの差があります。
実際には今も失聴はしていません。
だけど、補聴器無しでは自分の声さえも殆ど聴こえないので、健聴から今の聴力にいきなり落ちたなら、失聴したと感じると思います。
更に 私の聴力の低下は、音量の低下だけでなく、言葉の明瞭度(50音を正確に聞き取る能力)も低下し続けていて、今の私は 補聴器を装着しても聞き取れるのは せいぜい10~20%です。

そんなんで今は明らかな障害者なのですが、毎日少しずつ低下して、今の聴力に達しているので、ここから障害者になりましたという明確なラインが 私にはありません

公には身体障害者手帳を取得した時になりますが、本人の体感ではそこに至るもっと前から限界を感じていて、認定基準に達していない時に いつの間にか 自分は障害者だとの自覚が芽生えていました。

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■心配するなら配慮してほしい

会社ではランチを共にする友人がいます。
その中に、よく私の耳を心配してくれる人がいます。

困った人がいると放っておけないタイプで、よく人の相談に乗ったりしているのを見かけます。
ちょっとお節介なタイプではあるけれど、明るくて優しいと皆から好かれています。

辞書の意味からすると確かに優しい人だと思いますが、私は彼女に優しさを感じたことはありません。
定期的に「耳はどう?」と心配してくれて、いろいろ親身に聞いてはくれるけど、的外れなアドバイスを押し付けるばかりで、肝心の配慮がないからです。

私としては難聴を気にしてくれると、少しでも聴こえに配慮してくれることを期待してしまうのですが、彼女の場合は、配慮までは頭が回らないようです。
まるで病気になったばかりの人に諭すような調子で「病院に行ったら」とか「補聴器をしたら」とか、そういう類のアドバイスに終始します。

すでに何件もの病院で検査してもらっては 治らないと匙を投げ続けられている私としては難聴の知識ゼロの人から「病院に行け」としつこく言われるほど苦痛なものはありません
今の医学では治せないということを説明しても、「そんなことないよ。きっと治せる病院はあるから、諦めたらダメ」と励ましてきます。

「補聴器をしてみたら」と言われたこともあって、「補聴器してるよ」と返すと「もっと良いのに買い換えたら」と言われた時には さすがに私もムッとして「この補聴器、片耳40万円するんだけど」と反論したら黙ってくれましたが、こういう上辺のアドバイスの押し付けは迷惑でしかありません。
的外れの親切や優しさは、時に人を傷つけることもあるので要注意です。

ほんとに親切な人は、聴こえないと知ると、説教めいたアドバイスではなく、配慮してくれます
聞き取れないと伝えれば、ゆっくり繰り返してくれたり、書いてくれたりするので、こういう人と出会うとすごく有りがたい気持ちになります。

あくまで私の場合ですが、難聴についての励ましや慰めの言葉は要りません
それより欲しいのは配慮です。
難聴を事実として受け止めて、自然な感じで配慮してくれる人に私は優しさを感じます

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■親切行為に見返りを求める人

ひねくれた見方をすると、先の彼女は、親切に見返りを求めるタイプのように私には見えました。なぜなら「わかった」とか「ありがとう」を 私が言うまで 言い続けるからです。

私は「ありがとう」の言葉を期待してする親切を優しいとは思いません
感謝されることを期待した時点で、それは相手のためではなく、自分のための行為になっているからです。
激しく落ち込んでいる時は、相手に感謝の言葉を伝えるという気遣いができないこともあります。
落ち込んでいる人から「放っておいて」と言われて怒る人がいますが、そういう人は自分の言動が相手を追い詰めているという自覚がないのでしょう。

世の中には親切な人はたくさんいます。
優しい人もいます。
だけどその中に、感謝されることや自分の評価を上げることが目的の偽物の親切や優しさが混じっていることも多いです。
とはいえ、私はそれが悪いことだとは思っていません。
行為が適切であるならば 有りがたいので 私は素直にその行動に感謝します
それが たとえ仕事であっても、配慮に優しさを感じれば、やっぱり感謝します

私が嫌だと思うのは『的外れで迷惑な親切を押し付けて、その迷惑な行為に感謝を求める人』です。
真から良かれと思ってした行為が的外れの場合はその気持ちに感謝しますが、的外れなのに「私、親切でしょ」みたいな雰囲気でこられるとすごく嫌な気分になります。

見返りが 他者からの評価の人もいます。
「あの人優しいね」と思われたいがための親切で、そういう人は、人がいるところでは親切なのに 1対1になると冷たかったりします。

前者は、感謝の見返りを求めての「親切の押し売り」です。
後者は、他者からの評価を上げるための「利用」です。
ちなみに、災害時に救援活動する有名人を見て 売名とか偽善とか言う人がいますが、その活動に被災者が有りがたいと感じているのであれば、それは「善」です。
評価目的でも適切な親切を最後までやり遂げるなら、それを偽物だとは私は思いません
なぜなら、相手がして欲しいことを実行して、相手に役立っているのですから。そしてその適切な行動は相手のことを思わないとできないからです。

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■弱者に攻撃的になる人

優しさからはちょっと話が逸れますが、性格的に弱そうな人の態度が一変するのを私は職場で味わってしまいました。

難聴になると普段の生活でも苦労しますが、私が一番辛かったのは仕事です。
最初から難聴ならば絶対に選ばない仕事を私はしていたので、低下する聴力に毎日が針の筵でした。
私にとっての日々は聴こえないことをカバーするための工夫と努力の連続で、その努力のハードルが日増しに上がり続けるまさに地獄の日々でした。
ゆっくり低下するというのは、1年前とは明らかな差があっても今日と昨日では他人が分かるほどの差が生じないため、配慮を頼んでも「なんで?」という感じで無視されてしまうのです。
今思えば、それは致し方のないことだったかもしれません。
なぜなら、聴力が低下した分、私はそれを埋めるべく推測力(勘)をアップさせたり、聴こえない時の言葉の使い方を工夫したり、できるだけ今まで通りを目指したので、実際の聴こえの低下ほどに見た目は変わらなかったのでしょう。
だけど、私の脳内は変化の積み重ねで 元との差はどんどん拡がっています。
『聴こえ』と『勘』の割合は「7対3」→「5対5」→「2対8」と言った具合に変わり続け、『勘』が 5割を超えた辺りからは毎日が綱渡りでした。
この変化が他人に見えたなら、深刻な聴力低下を分かってもらえたかもしれませんが、悲しいかな体内のことは他人に説明したところで理解してもらうことはできませんでした。

とはいえ、低下し続ければ何れは限界が来ます。
商談に赴いた先で相手の声が100%解読不能という目に遭い始めると、さすがに勘で埋めることも、話術で誤魔化すこともできません。
仕事で大失態してしまう前に、私は外部の人と接する仕事から退きたいと会社に申し出ました。

第一線から退いてしばらくすると、態度が変わる人が出てきました。
実は、退く決断をする前後の私はかなり気弱になっていて、上にも下にも「聴こえなくてごめんなさい」と謝ってばかりでした。

私は弱さを見せた方が、聴こえないことが伝わって配慮してもらえるかと思っていたのですが、結果は逆でした。

最初の変化は、よく仕事のアドバイスを私に求めてくる後輩や同僚の中から現れました。
以前の態度は私に対して腰が低かったのに、私が弱くなった途端に偉そうな態度に豹変した人が出てきたのでビックリしました。
私としては偉そうな態度でアドバイス求められてもなあという感じです。

第二のビックリは、友人として付き合っていた人の中に、今までなら聞きそびれた話を訊けば気軽に教えてくれていたのに、訊いても教えないみたいな意地悪をする人が出てきたことでした。
思い出すと気分が悪いので これ以上は言いませんが、態度が悪い方に変わった人に多かったのは大人しい部類の人で、人から何かを言われても言い返せないような性格の弱い人だったり、強い人に引っ張られがちな人達でした。

当然、強い人にも変化が無かったわけではありませんが、こちらの変化は第一線を退けば誰にでもあり得る距離的な変化なので、寂しいとは思ったけど、予測済みなので 動揺することはありませんでした。

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■弱肉強食

社会はどうこういって弱肉強食です。
強い者が勝ちます。
弱肉強食は動物が生き残るための本能であり、人間も動物なので 社会はそれを反映して競い合いがベースだし、争いごとも絶えません。

ただ、人間は他の動物と違って前頭葉が発達しているので、本能のまま生きていたら、際限なく欲望を膨らませていくことになるでしょう。
知能がそれを可能とするので、自制できなければえらいことになってしまいます。

この強い者が勝ち残るという習性は、高い給与を目指して頑張る人や、スポーツや勉強で上位を目指す人達の姿に見ることができます。私にも出世欲はあったので例外ではありません。
また、権力争いや、弱い者から搾取するという行動も弱肉強食の現れです。

競争は互いの能力を高め合う点ではプラスですが、人を貶める場合もあるので、人間は『法』や 様々な『ルール』を作って悪い行動を抑えています。
今回私が障害を理由に第一線から退いた後に味わった体験は、弱い人の中の弱肉強食なのかもしれません。

すでにお話した通り、私には この日から障害者になったという明確なラインがありません。
もしも、私の障害がある日突然だったなら、私に起こった虐めっぽい反応は障害者に対する差別だと感じたかもしれません。

でも私の場合の 原因は、障害ではなく、私が気弱になったからでした。
性格の優しい(弱い)人は 普段攻撃することがないので穏やかなイメージがあったのですが、まさか私のそばでニコニコしていた人が、私が弱者になった途端に牙を剥いて来るとは思ってもいなかったので、これは本当に驚きました。
この体験で私が感じたのは、障害者は 障害にコンプレックスを抱いているので、弱い者の餌食になりやすいということでした。

だけど、私は餌食になるほど弱くはありません。
低劣な世界に取り込まれて心がズタズタになるのはごめんだったので、情報が入らなくなってもいいや!と開き直り、早々に弱さを見せるのを止めました。
同時に、人間関係で感情を振り回されるのも面倒なので、会社は仕事をするだけと割り切り、プライベートな友人の輪からはきっぱり抜けることにしました。

私が以前の姿に戻ると、態度が偉そうになっていた人は、しばらく私の顔色をうかがっていると思ったら、やがて元の接し方に戻りました。
この偉そうになるというのは、考えてみると珍しいことではなく、至る所で見かけます。
力を誇示したい人は結構いるし、力関係の序列は自然に発生するものなのかもしれません。

今回は、たまたま私に武器(長年培ってきた仕事の経験と知識)があったから強気に戻ることができましたが、これが新たな職場だったりするとそうはいかなかったと思います。

障害者は配慮が必要だから「弱い」と見られがちですが、障害を抱えながら生きるハードさを考えれば 弱者であっても、弱虫ではありません
障害という弱点を見せた途端に、その弱点を攻撃する人は何が楽しいのでしょう。

弱い者虐めをする人は 抑圧された何かを抱えているのかもしれませんが、その感情の発散を弱い人に向けるのではなく、強い人と正々堂々と闘える自分になる努力に向けてほしいと思います。
障害者は自分で望んだわけではない障害という大きな課題を抱えて懸命に生きているのです。
障害に関わらず、前進しようと懸命にもがいている人を虐める行為は人として最低です。

私に起こったこれらの出来事は、私に”障害を負えば その分強くならなければならない”ことを知らしめました。

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■努力が伝わると良い変化が生まれる

嫌な思いとは逆に良い変化もありました。
第一線を引く前は、どれだけ頼んでも配慮を一切してくれなかった人が配慮してくれるようになったのです。
その変化は、私が弱さを見せたからではありません。
むしろ、配慮しないなら手伝わないとはっきり断るようになったから、最低限の配慮をしてくれるようになった感じです。
今まで「ごめんなさい」「すみません」と小さくなって配慮を懇願していましたが、そういう弱い態度より交換条件を出すぐらいの強い態度の方が上手くいくのだなと思いました。
ただこれも、それまでの私の仕事のやり方や実績を皆が知っているから出来るのであって、駆け出しだと同じ手は使えません。難しいところです。

だけど、強い交渉をしなくても、こちらの努力で変化してくれた人もいました
以前は配慮を求めると不機嫌になっていた人が、今では一番の理解者になったのです。
その人の変化は、私が話を聞き取るためにあれこれ機材を試しては悪戦苦闘する姿を見て変化したようです。
甘えで助けてと言っていたのではなく、努力しても埋められないから助けてと言っていたことが分かったようです。
残念ながら、脳でしている努力が伝わって態度が軟化した人はいません。
努力が伝わったのは、あくまで機材を使って工夫している姿を見たからで、目に見える努力をしないと気付いてもらえないことを実感しました。
“難聴って大変なんだな”と感じた時、はじめて難聴のことを訊いてきました。
こういうタイプの人は好奇心で質問しているというより、どうしてほしいのかを知るために訊いてくるので、私としては大変有りがたかったです。

これはこの人に限らずで、一旦、努力していることが伝わり、大変そうだと感じると、配慮してくれるようになります。
当然、配慮の仕方や程度は人によって差があります。
また、そこに至るまでの時間にも差があります。
だけど、有りがたいことに、少しずつ配慮してくれる人は増えています。

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■弱さを見せても変わらない

弱さを見せたことで痛感したのは、競争原理の中にある職場では 弱さを見せても人は助けてはくれないということでした。
人が助けてくれるのは、こちらの努力が伝わった時です。
それと強気の交渉に成功した時です。

もちろん、難聴と伝えるだけで配慮してくれる人も世の中には沢山います。
だけど忙しい職場では、人の面倒を見ている時間も余裕もありません。
しかも親切が評価されて給与が上がるわけではないので、どうしても障害者は放置されがちになります。
どうしてそうなるのかというと、それは企業や組織が無責任に現場に丸投げするからだと思います。

企業が障害に対しての対策や指導をせずに、健常者の中に突然障害者を放り込んでしまえば、途方に暮れた現場では弱者排除の動きが発生し兼ねません。
障害に関しては、組織の考え方、社会の考え方から、変わって行く必要があります
現状では障害者雇用で雇ったにも関わらず、配属先に障害者の状態をきちんと説明することさえしない企業も少なくないようです。

2024年4月から障害者への合理的配慮の提供が民間の事業者にも義務となりました。
法が無くても配慮できる社会が理想的ですが、多くの人は障害者への接し方さえ分かっていないのが現状です。
これを機に徐々に意識が変わり、誰もが暮らしやすい社会に変わっていけば良いなと思います。

優しさからは随分話が逸れましたが、私は思います。
どうすれば皆が快適に生きられるのかを自然に考えることができるのが究極の優しさではないかと。
それを考えたり生み出すことを商売(金儲け)としていたとしても、真に優しい社会のしくみを作れる人は根本が優しいのではないかと思ったりします。

皆が生きやすい社会になることを願いながら、今回の話を終了します。
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途中から書きたいことが次から次に噴き出してきたため、支離滅裂な長文になってしまいました。
一部削除して、読みやすいようにまとめ直そうかと思いましたが、噴き出した感情の全てが私の吐き出したいことだったので、このまま吐き出したままにしておきます。

まとまりのない吐き出しにも関わらず、最後まで読んでくださり、ありがとうございました。

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[前回のナンチョー日記]
  ↓
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