LGBT(性的少数者)について考える

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からだのエッセイ

からだのエッセイ 第6回

私はLGBTを病気や障害というふうには見ていないのですが、ある議員の「LGBT支援は度が過ぎる」の記事で嫌な気分になり、更に つい最近 この記事を掲載した雑誌がまた酷い内容の記事を掲載したとかで またまた不快な気分になったので、私も言いたいことを書くことにしました。
※LGBTとは 「L=レズビアン(女性の同性愛者)」「G=ゲイ(男性の同性愛者)」「B=バイセクシュアル(両性愛者)」「T=トランスジェンダー(性別に違和感を持つ人の総称)」の頭文字から取った 性的少数者の一部を指す総称です。

私は今回話題になっている「新潮45」(2018年10月号)の記事は読んでいません。
そもそも先の「新潮45」(2018年8月号)の記事に賛同していないので、それを擁護した記事など見たくもありません。
ただ発端の記事である杉田水脈氏の「LGBT支援の度が過ぎる」には全文に目を通す必要があると思いましたので、下記サイトで読ませていただきました。
http://blog.livedoor.jp/skeltia_vergber/archives/51543955.html

全文を読んでみると、ネットで騒がれているほどには乱暴な印象は受けませんでしたが、これが国民を代表する国会議員が書いていると思うと、あまりに無知で、主張していることも 思いつくままに書いているような内容でしたので、正直呆れてしまいました。

「LGBTは子供を作らないから「生産性」がない」と言うのも、今の時代が取り扱う根幹の問題からは大きく逆行する考えだと思います。
以前 別の政治家が子供を産まない人の話で、やはり「生産」という言葉を使っていて なんて失礼な奴だと憤りましたが、人が子供を作ることを「生産」という言葉で表現するのは、人を物扱いしている感覚から出る言葉のように感じられるので、政治家が使うには不適切な言葉だと思います。
また「生産」という言葉は少子化問題から発言されることが多いですが、少子化は産まない国民が悪いのではなく、産めない社会にしてしまった国の政策ミスです。
一部の誰かを責めるような発言をする政治家は、自分たちが本来しなければならなかった仕事を先延ばしにした責任(出来ない無能)を、一部の国民に非難の目を向けさせることで誤魔化そうとしているようにしか感じられません。
どんな場合でも、国策に携わる、すなわち権力側の立場にいる人は、弱者や、少数の者を責め立てるような発言をしてはいけないし、子供を作ることを「生産」などと平気で言える神経では困るのです。

少し話が脱線しました。
LGBTの話に戻します。
杉田議員の文章を読み進めていくと、杉田議員はLGBとTは別と考えていて、Tには寛容で、LGBにとても攻撃的です。
彼女の中ではLGBの性的指向は、嗜好の問題らしく、意図的かどうかは分かりませんが 性的嗜好という漢字を使って、完全に嗜好性の問題にしてしまっています。
彼女の理屈を略すとこうです。“自分が中高一貫の女子校にいた時に周りの人は同性の先輩や同級生を対象に疑似恋愛をしていたが、成長とともに彼女らは普通に男性と恋愛して結婚した。もしも同性愛を認めたら、普通に異性と結婚できる人までが同性愛を選ぶようになってしまう。”ということらしいです。
反論します。
人は理屈で人を好きになったりしません。
そして、同性しかいないなど特殊な環境にある人達の行動はLGBTとは切り離して考えねばなりません。
しかも 杉田議員が例に挙げているのは、子供から大人へと変化の途上にある思春期の学生で、身体的にも精神的にも不安定です。
私が学生の頃、そういう学生と話をしたことがありますが、彼女が言うには 男性は汚くて怖いから絶対に嫌、だから女性の方がいいと言っていました。
これは性的指向の問題ではなく、完全に環境の問題です。
思春期の子供はいろいろです。性に目覚める時期ですが、体の発達と心の発達にはズレがありますので 心の準備が遅れることはままあることです。だけど、成長とともに普通に異性を愛せるようになるならば、それはLGBTではないのです。
それなのに、思春期の問題とLGBTとを一緒のことのように考えるということは、杉田議員はLGBTをきちんと調べずに自分の思い込みだけで発言しているということになります。
思春期に同性と疑似恋愛する人の行く末が心配ならば、彼女たちを取り巻く環境の方に目を向けるべきなのです。共学の学生と 女子校の学生では、少なからず行動に違いが出ます。

そして、人を好きになる。これは理屈でどうこうできるものではありません。
異性しか愛せないのに、同性を愛せと言われたら大抵の人は困るでしょう。
同性愛者だって同じです。好きになってしまうのが同性で、異性を好きになろうと努力しても どうしても恋愛対象として見ることができないのです。
それに 普通に恋愛対象が異性の人でも、全ての異性を恋愛対象として見れるわけではありません。異性であれ、同性であれ、生理的にダメな人と無理やり結婚させられたら、それはとても辛いことです。
杉田議員は同性愛者に対し、それを自ら好きに選択して楽しんでいるかのようなイメージを持っているようですが、同性愛者は嗜好で同性を選んでいるのではありません。
私達が異性を好きになることを止められないように、自然にそうなってしまうのです。

また、杉田議員はLGBを攻撃する一方で、トランスジェンダー(T)は「性同一性障害」という障害だから、これはLGBと分けて考えるべきと言っています。自分の認識している性と体が一致しないのは辛いだろうから、性転換手術にも保険が利くようにしたり、いかに医療行為を充実させて行くか考えねばならないかもしれないと言っています。
「はあ!?」です。
確かに性転換して解決する人もいるし、そういう支援を考えることも大事なことだと思います。でも多くのトランスジェンダーはカミングアウトできずに苦しんでいるのです。
私には「性同一性障害」や「両性愛者」などLGBTの知人・友人が何人かいるのですが、性同一性障害の友人の悩みは、性転換で解決するものではありません。カミングアウトできないことで辛い思いをしているのです。

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■性同一性障害の友人
「性同一性障害」の友人を仮にAさんと呼ぶことにします。
Aさんは普通に結婚し、子供もいるごくごく普通の一般人です。
見た目は、体の性と外見に何の違和感もありません。
長年のお付き合いですが、打ち明けられるまで全く気付きませんでした。
だから最初、打ち明けられた時は驚くというより、性同一性障害がどういうものなのかさっぱり理解できませんでした。
Aさんは自分の性に違和感があり、自分の性は間違っていると言いますが、同性愛者ではありません。
女装や男装をする人がどういう人か分かりませんが、そんな感じなのかと聞いてみると、それとも違うと言います。
中身の性が違うのだと言います。
Aさんは、子供の体から大人の体に変化しはじめた頃から、ずっと自分の体に吐き気がするほどの嫌悪を感じているそうです。性転換できるならばそうしたいとも言います。
だけどAさんの場合は同性愛者ではなく、好きになるのは異性なのです。
私は性に対しての意識が薄い方で、男も女も同じ人間だし、異性を好きになれるのなら割り切れそうな気がしました。だけど、私が割り切れそうだと思うのは、多分 体と心と性が一致しているからで、私の感覚的概念には男と女しかないからだと思います。
Aさんは、体と心と性がバラバラなので 常に精神状態はアンバランスなのだろうと思います。その中で懸命に社会に順応する自分を演じているわけです。真の姿でのびのびと生活したことがないのです。これはとても辛いことだと思います。想像ですが男と女をきっぱり二分できる感覚はAさんにはないと思います。(ここで言う男と女とは知識的概念の話ではなく、本能的な感覚の話です)
結局、Aさんの苦しみを理解したくていろいろ訊いてみましたが、「この苦しみは絶対に分からないよ」とAさんが言う通り、私には分かりませんでした。
ある日、あまりにAさんが辛そうなので、カミングアウトしてみてはどうだろうと提案してみましたが、それだけはできないと言っていました。
なぜならば、今の社会でカミングアウトすれば間違いなく偏見の目で見られることになる。自分だけならそれでもいいが、子供や家族を偏見の目に晒したくない。だから これからも誰にも言うつもりはないと言います。
Aさんの苦しみの大きな問題点は世の中の偏見なのです。

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■両性愛の友人
バイセクシュアルの友人は、恋人が変わるたびに、相手の性別が変わります。
この友人のことはBさんと呼びます。
Bさんは、異性の恋人の時には 性のことは「内緒」と口止めしてきます。
付き合う相手によって微妙にしぐさや態度が変わりますが、私から見ると異性の恋人と一緒の時のBさんは自然体ではないと感じます。
Bさんに、異性と同性のどちらの方が好きなのか訊いてみたことがあります。
同性の方が好きになることが多いが、時々異性を好きになることもあるらしく、自分でもよく分からないと言っていました。
私が知る限りでは、異性と付き合っても長くは続いていませんでしたし 楽しそうでもなかったので、どちらかというと両性愛より同性愛者に近かったのだろうと思います。これは憶測ですが男女両方の役割が可能だったので、本当は同性愛者だけれど、異性を好きになる努力を必死にしていたのかもしれません。
Bさんは、一見、自由奔放に生きているように見えるし、自虐ネタでよく笑わせてくれる楽しい人なのですが、Bさんの目はいつも笑っていません。
飲んで 飲んで本音が出るほど飲んだ時は辛そうな顔が登場します。
普通に生まれたかった」とポツリと本音が出たこともありますが、すぐに冗談で茶化して、明るく振舞おうとします。そうしないと耐えられないのだろうと思います。
異性の恋人以外には、カミングアウトしているBさんも やはりとても苦しんでいるのです。

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■好きでLGBTをやっている人などいない
Bさんは、杉田議員が攻撃しているLGBに当てはまる人ですが、私にはAさんもBさんも、同じ苦しみを背負っているようにしか見えません。
普通ではないという劣等感と、普通であればという羨望、そして社会からの偏見。これに苦しむのは どちらも同じです。
家族が理解すれば解決する問題かのように杉田議員は言いますが、それは違います。世の中が偏見に満ちているから辛いのです。世の中の偏見が無くなれば、ショックではあっても、家族は今よりずっと受け入れやすくなるのです。本人もカミングアウトしやすくなるのです。

彼らに必要なのは、普通に息ができる社会です。自然に存在を受け入れてくれる世の中です。
「僕、ぽっちゃりした女性が好きなんです」「私、筋肉モリモリの人が好きなんです」「私、実は匂いフェチなんです」と言うくらいに自然に自分のことを言えて、それを普通に特性として受け入れられる。そうなるだけで、彼らはとても生きやすくなるのです。
彼らの心の特性は治すというものではありません。
そして、トランスジェンダーは性転換すれば それで問題がすべて解決するものでもありません。多くのトランスジェンダーは性転換の道を選ぶ前に カミングアウトできなくて苦しむのです。
カミングアウトしても、その後の偏見に苦しむのです。

人類は医学の進歩とともに、すでに生物界のルールからはみ出てしまっています。それなのに、性的少数者にだけ生物界のルールを押し付けるのは、あまりに感覚が時代遅れのように私は思います。
少数の人を責めれば責めるほど、世の中には偏見や差別の意識が芽生えます。
そのような人間として逆行することは止めて欲しいし、そんな悲しい国になって欲しくはありません。
国は、例え少数であってもそういう特性を持つ人がいることを認め、普通に社会で生きて行きたいと考えている同性カップルにも平等の権利を与えて欲しいと思うのです。
繰り返します。
LGBTは性的嗜好者ではありません性的指です
体と心が一致しない人達であり、個人の性的な嗜好の問題ではないのです。嗜好以前の問題で苦しんでいる人達のことを指すのです。

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■少子化は国の怠慢
最後にLGBTのこととは直接関係はありませんが、国会議員が「子供を作らないのは「生産性」がない」という考え方で支援するしないの正当性を考えていることに問題を感じますので、少子化問題について少し触れたいと思います。

現在、世界の人口は増えているのに、日本の人口は減少に転じています。
いまや少子化は日本の深刻過ぎる問題になっています。
この少子化が進んだのは、子供を産まない国民のせいではなく、未来のビジョンを描けず、子育てに関する問題を先延ばしにしてきた国の政策ミスです。
もしも、この社会が子供を産んだら幸せになる、もしくは、せめて子供をたくさん産んでも普通に暮らせるならば、こんなにも少子化は進まなかったはずです。
少子化対策を考えるならば、多くの国民に子育てできる経済力をつける必要があります。
今も政府は口ではいろいろ言いますが、現実には本腰入れた取り組みは避けているように見えます。中小企業で働く庶民から見ると、弱者切り捨て、金持ち優遇の施策に向いていると感じます。
社会はごく僅かな大金持ちを頂点に、低所得になるほど人口が増えます。ちょうどピラミッドのように、上部の金持ちは少なく、下部に行くほど多くなります。そして上部にいる一部の人達はますます潤い、ピラミッドの底辺にいる大勢の庶民の暮らしは一向に良くなりません。
だけど少子化を防ぎたいならば、圧倒的に数が多い底辺の庶民が子育てできるだけの経済力を身に着ける必要があります。もしくは低所得でも子育てできるしくみが必要です。

前後の世代より人口の多い「団塊ジュニア」世代は 不況の影響をモロに受けました。まともな職にありつけなかった人も多く、若い頃は子育てどころではない人が大勢いました。結果、人口が多いのに子供の数は増えませんでした。これは完全な国の政策ミスです。
そして今は、1日3食の食事にありつけない貧困に喘ぐ子供が増えています。
外国に何十億とお金を流す一方で、貧困に喘ぐ子供が増えているのが日本の実情です。

これでは子供を産んでも育てられません。
共働きをしなければ家計が持たないのに、待機児童問題に20年もの歳月を費やし、企業の多くは未だに子育て中の女性に冷たい。子供を作ると女性はとても働きにくいのが現状です。
子供は産めばいいだけのものではありません
育てなければいけないのです。
そこには労力もお金も必要です。
産んでも子供を虐待して死なせてしまったり、経済的に追い詰められて一家心中をはかったり、子供を施設に入れなければならなかったり、成長期の子供に栄養のあるものを食べさせられなかったり、たくさんの人達が子育てに問題を抱えています
こんな社会で子供を産めと言われても、安心して産めません。

産むよりも育てる方がお金はかかるのです。
そんな中で 子供が欲しくても産めない人が 養子をもらって育てたり、里親をするケースはたくさんあります。
産まなくても、育てるということで 充分に社会貢献しているのです。
外国では同性カップルが養子を育てているケースもあります。偏見がなくなり、平等な権利が与えられたならば、同性カップルも、異性カップルと同じく子育てに貢献できるのです。

政治家の皆さんは、産まないことを責める前に、まずは子育てできる環境を作ることに力を注いで欲しいと思います。子供を産みたくなる社会にして欲しいと思います。

最後にもう1つ、政治家の皆さんへのお願いを書いておきます。
今後の対策を考える時、国民を単なる労働力としてしか見ず、労働力の不足は外国人で埋めればいいなどと、安易な政策のみに流れないことを切に願います。
どうか子供を産み育てたくなる社会を目指してください

人に優しい社会、エネルギッシュで元気な社会、そんな明るく楽しい未来が訪れますように。

(追記)
この記事をアップした翌日の2018年9月25日に「新潮45」は休刊しました。
新潮社の休刊のお知らせによると、原稿チェックがおろそかになっていた結果「あまりに常識を逸脱した偏見と認識不足に満ちた表現」を掲載してしまったとのことで、反省の思いを込めて休刊を決断したそうです。

私は10月号は読んでいませんが、読んだ人から聞いた内容があまりに酷かったので 私も感情のままに今回これを書きましたが、いざ書き始めると LGBTの友人がいるにも関わらず 今まで性的少数者のことを調べたことがなかったことに気が付きました。
ここに記載した内容は、友人知人との付き合いの中から得た私の印象なので、全てのLGBTに当てはまるわけではありません。また性的少数者はLGBTだけでもありません。
これを機に私も性的少数者のことをきちんと知る努力をしたいと思います。

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