盲聾者(もうろうしゃ)の世界を知りたくて読んでみた。「奇跡の人 ヘレン・ケラー自伝」の感想

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読書感想

読後感想 第5回
「奇跡の人 ヘレン・ケラー自伝」 ヘレン・ケラー著 小倉慶郎訳

あまりにも有名な人。
目も見えず、耳も聴こえない、インパクトの強い人生を歩んだ人。
サリバン先生が家に来てから、Waterをきっかけに物に名前があることに気づくまでの話は有名だ。
ヘレン・ケラーその人もすごいと思うが、私はどちらかと言えばヘレンを覚醒へと導いたサリバン先生の方がすごいと思っていたので、今までヘレンの自叙伝を読もうと思ったことはなかった。
ところが最近、ふと、ヘレン・ケラーの内面を覗いて見たくなったのである。
きっかけは、盲聾者の記事を目にすることが増えたからである。
中途障害ではなく、先天性の場合、彼らはどうやって世界を認識するのかが知りたくなったのである。
但し、ヘレン・ケラーは先天性ではない。
そして、盲聾者(もうろうしゃ)の見え方、聴こえ方も、人によって違う。
ヘレンの場合は、1歳7ヶ月までは見えて聞こえていたが、その後は光も音も完全に失っている。

私が一番知りたいのは、暗闇と静寂しか知らない人がどのように世界を認識するのかということである。
例えば、視覚障害者で全盲(もう)の人の中には全くの暗闇の人もいるが、光は見えて至近ならば薄っすら物の存在を感じられる人もいる。後者の場合は何となくでも周りの人が「目で物を見ている」ということは想像しやすく、目で物を見るということがどういうことなのかも全く見えない人よりは理解しやすいと思う。
聴覚障害者も全聾(ろう)と言っても全く聴こえない人もいれば、補聴器を付ければ大きな音なら何となく聴こえるという人もいる。後者は音の内容までは分からなくても世の中に「音が存在している」ことは理解できると思う。
私が知りたいのは光も音も全く無い盲聾者のケースで、ヘレンはそれに該当し、尚且つ、自分自身を分析できるだけの知性を持ち、それを伝えるだけの文章力を持った人なので、本にはヒントがいっぱいなのではないかと興味を持ったのである。

ヘレンは、目と耳は使えないが、匂いや触覚など他の感覚器官により世界を認識することはできる。
だけど、そこには言葉がない。
物の存在も触れれば形があることは分かる。普段の生活からどんな時に使う物かも分かる。匂いや気配を感じることもできる。当然、感覚面での思考は生まれる。身振りで欲求を伝えることも覚える。だけど言葉が無いと論理的な思考や道徳的な感覚を身につけることが難しい。それ以前に、本人が伝えたいことを伝えるのがとても難しい。
ヘレンも成長と共に伝えたいことが増えていく。だけど簡単な身振りだけでは限界がある。やはり言葉の理解が必要になってくるのだが、目も耳も両方とも機能していない場合、この言葉の存在にどうやって気づけば良いのだろうその最初の扉を開くのが一番の難関だと思う。

この最初の扉を開くことについては、ヘレンは、先天性の盲聾者の場合より、少しハードルは低いと思う。なぜなら、ヘレンの場合は以下のように多少でも思い出せる記憶があったからである。
「(引用)生まれてから1歳7ヶ月になるまで、私の目には、広い緑の草原と、光り輝く空と、木々や花々が映っていた。その後、おとずれた暗闇も、完全にこの光景を消すことはできなかった」と言っており、また、熱病により目から光が奪われていく感覚を「(引用)光はかすかでおぼろげで、日に日に消えてゆくように思えた」と言っている。
彼女には見えていた記憶の断片が潜在意識の中で完全に消えることなく残っていた。
また、Waterという単語は、目と耳を失うまでに彼女が覚えた単語の1つで、聞こえなくなって以降もウォーターのつもりで「ウォーウォー」と言い続けていたそうだ。
だから言葉の存在に気づくのに、ヘレンの場合は幼い頃のかすかな記憶が手助けになった可能性が高く、そこは先天性の盲聾者と大きく異なるところである。
但し、その後のヘレンに訪れたのは完全な暗闇と静寂の世界で、1歳7ヶ月という年齢は世界を認知するには幼すぎた。そして、彼女が失明失聴したのは脳が環境に適応するためにめまぐるしく活動している時期だったので、光と音の無い世界に順応するのが早かった代わりに、それまでの記憶が顕在意識から消えるのも早かった。実際、ヘレンはWaterで覚醒するまで、見て聞いていたことは全て忘れていた。だから、ヘレンの世界の捉え方はやはり盲聾者を少しでも理解したいと思えば参考になるのではないかと思う。
ただ、この本を読んでいると、最初、ヘレンの描写があまりにも健常者と同じなので、文章を読むだけでは健常者との感覚の違いが分かりにくく、ヘレンの内面に入り込むのはとても難しかった。なので 私はこの本を読む時はできるだけ、見えず聴こえないことを強く意識し、文章を匂いや肌を通して感じる感覚に置き換えるようにして読んだ。

■目が見えなくても、耳が聴こえなくても、子どもは成長する
この本を読み進める中で、最初に思ったことは、どんな子どもでも、脳はその子なりに発達しているということである。
ヘレンが生まれたのは1880年6月。生後6ヶ月で「How d’ye?」(こんにちは)や「Tea」(ティー)、「Water」(ウォーター)」などを覚えた利発な子どもだったようである。
ヘレンに不幸が訪れたのは1歳の冬(2月)。熱病により光と音が奪われることになった。
視力と聴力の両方を失った時のヘレンは1歳7ヶ月の赤ちゃんで、自分の身に生じた不幸に気付くことなく、徐々に暗闇と静寂の世界に慣れていき、見えていた時期のことは完全に忘れてしまう。
幼児期の彼女の姿が 周りの人達にどのように映っていたのかはヘレンの文章(視点)からは分からない。だけど、彼女の文章から伝わってくるのは、好奇心の広がり、自分の考えを伝えたい欲求の芽生えなど、子どもの成長過程そのものである。例え、目が見えなくても耳が聴こえなくても、子どもの脳は成長し、様々な知識や体験を吸収する準備が進むのだということを感じた。
ヘレンの場合はその後サリバン先生との出会いで言葉の存在に気づき 知性を開花させることができたが、この暗闇と静寂の牢獄に知性が閉じ込められたまま生きている人もたくさんいるのかもしれないと思うと、これはとても悲しいことだと思った

■言葉の大切さ
「(引用)人は、光も音もない「孤独の谷間」を歩く時、あたたかい愛情というものを知らないのである。愛情とは、愛にあふれることばや行為に接し、人と心が結ばれてはじめて芽生えるものだからだ。」
本を読んでいると、何度か愛と言葉を結びつけた文章が出てくる。
ヘレンにとってそれほど言葉の存在が、心と密接に関わっているのである。

サリバン先生がヘレンのもとに来てから、先生はヘレンの手に何か物を持たせては、手のひらに綴りを書いて物には名前があることを何度も何度も伝えようとした。
ヘレンは面白くて綴りを覚えはしたが、それが何のことなのかは分からなかったと言う。
その何度も手に書かれた綴りが何を表すのかを理解した瞬間が、あの有名な「Water」のくだりであるが、あの日のヘレンの心の変化が一番「言葉」の存在の大切さを物語っているかもしれない。
Water(水)が自分の手の上に流れ落ちてくる冷たいもののことだと分かった時より少し時間を前に戻すと、ヘレンは癇癪を起して人形を激しく床に投げつけて壊してしまっている。
その人形を壊したことについて、ヘレンは「(引用)人形が砕け散り、破片が足元に散らばったのがわかると喜びが込み上げてきた。この激しい怒りのあとには、悲しみも後悔も湧いてこなかった。人形を愛していなかったからだ。私が住む音と光のない世界には、悲しみや後悔など胸をつく思いも愛情もなかったのである。」と書いている。
この出来事の後、Waterという綴りが 水のことだと知り、自分の手に書かれた多くの綴りに意味があったことに気づくわけだが、これに気づいたヘレンの帰り道は「(引用)手で触れたものすべてが、いのちをもって震えているように思えた。」とあるように世界が一変したのである。
そして「(引用)家の中へはいるとすぐに思い出したのは、壊した人形のことだった。手探りで暖炉のところまでたどり着き、破片を拾い上げる。もとに戻そうとしたが、もうもとには戻らない。目は涙でいっぱいになった。何とひどいことをしたのかがわかったのだ。この時、私は生まれてはじめて後悔と悲しみを覚えたのだった。」
物に名前があることを知る前と後でこれほどにも感じ方に変化が出るのである。
言葉があるから深く思考できるという感覚は私にもある。ただ、この時のヘレンはまだ言葉で思考しているわけではないので、物に名称があるということを知っただけで 物への感じ方がこれほど大きく変わったということになる。
ヘレンはそれを愛情と表現している。
確かに名前があれば、その物が存在していることを強く意識できる。
バラバラに砕け散った人形は、もはや「人形」ではなくなることをヘレンは知ったのだと思う。

■ヘレン・ケラーの文章がまるで見えて聞こえている人のようなのは何故か。
ヘレン・ケラーの本を読み進めていくと、途中で違和感を覚える。
なぜなら、聴こえないのにカエルや虫の鳴き声の描写があり、見えないのにあたかも見えているような細かい表現が入るからである。
前半を読み進めている時、私は、ヘレンが私達と同じような表現を使って 自らの経験を描いていることがずっと不可解だった。
中盤からはヘレンの苦い経験や思いが綴られているので、ヘレンの苦悩を知るうちに、なぜヘレンが私達と同じ感覚の文章を書けるのかが何となく理解できてきた。それは彼女の世界の認識は全て言葉を通して行われ、全て頭の中で想像されたものだからだ。
1892年、ヘレン11歳の冬、ヘレンは「霜の王様」という短編物語を書き、これが後に盗作だと問題になったことがある。ある物語と内容がそっくりだったのである。ヘレンは自分の頭の中から自然に湧きあがった物語を書いているので自分の創作だと思っている。だけど現実にそっくりな物語が出てきた以上、それはヘレンの創作ではなく、ヘレンは忘れていた過去の記憶を自分の創作と間違って浮かんだままに書いたということになる。
読んだ記憶が残っていないのに、湧き出てきてそっくりに書ける記憶力には驚かされる。ずば抜けた記憶力とイメージの吸収力があるから、このようなことが起きたと言えるが、この時に受けたヘレンの心の傷は深く、その後も引きずることになる。
ヘレンの言葉を借りよう。
「(引用)気に入ったことばを吸収し、それを自分のものとして書く癖は、幼い時の手紙や、まだ書きはじめの頃の文章を読むとよく分かる。」
「(引用)実はいまでも自分の考えと、本で得たものとの区別がきちんとつかない。これは、私が手にする印象の多くが、他人の目と耳を介するためだろう。」
「(引用)私は、まだ訓練の途上にある。自分の考えと、本で読んだ考えとを区別できないことがあるのは確かだ。なぜなら、読んだものが私の精神の一部となり、「血肉」となってしまうからだ。」
耳が聴こえ、耳から言葉を覚える私達は、現実のことは目と耳ではっきり、しっかり捉えながら体験していく。リアルがはっきりしているから、本を読んで空想したことが、現実と混同することはまずない。「あれは夢か現実か・・・」と考えることはあるが、それは記憶の映像が曖昧だったり、記憶が不鮮明だったりするからで、私達は常に目と耳で確認したはっきりした記憶を現実だと判断して暮らしている。
ヘレンにはそのはっきりした映像記憶や音響記憶がない。
ヘレンは、本を通して世界を知り、本を通して文章を知る。そして文章を通してさらに広く、深く、世界を知っていく。
目や耳で現実を確認することができないので、常に想像しながら把握する。
目の前で起きたことも、全て他人の文章を通じて知り 想像で把握するので、ヘレンにとっては現実のことも本の内容もすべて自分の頭で想像するという同じ処理をしていることになる。そこは私達とは異なる。
健常な私達でさえ顕在意識が忘れてしまった記憶がふと頭に浮かんだら、自分のアイデアだと思い込んでしまうことはよくあることだ。
だから、膨大な知識を本から頭に入れたヘレンならば、なおさら記憶と自分の考えの境界が曖昧になるのは仕方のないことのように思う。

こういうヘレンのエピソードを読んでいると、なぜ ヘレンの文章には風景や音があるのかが分かる。肌で感じる振動や空気、匂い、味覚など、ヘレンに感じ取れる全ての感覚を総動員して、言葉と感覚を結びつけているのだと思う。
この自叙伝を書いている22歳のヘレンは、気に入った言葉を連ねて書いているわけではない。回想に風景や音の表現が混じるのは、その後に覚えた多くの言葉と自分が感じたものの意味を繋げて場面を想像できているからである。
ヘレンには、美しい風景を見て「綺麗だね」の一言で共感する視力が無い。ヘレンが世の中を知るためには必ず言葉による説明が必要である。
どういうふうに美しいのか、描写が伝えられて、それを想像することになる。
音も同じである。音は振動なので大きい音、小さい音、低い音、高い音など感覚で感じ取れるものがある。この振動がどういう音を出しているのか言葉で伝えられ、ヘレンなりに想像する。
ヘレンにとって自分と世界を繋ぐものは言葉だけなのである。
ヘレンが世の中のことを覚えていく過程は、全てが想像の世界なのである。
ヘレンにとって言葉は世界を把握するための唯一最強の方法なのである。

ヘレンは何でも手で触って確認する。天候や場の雰囲気も肌で感じとる。それらが意味することを言葉に置き換えて理解していく。
見えなくても見えるほどに、聴こえなくても聴こえるほどに、細かく感覚を読み取り、それを言葉と結びつけていく。第六感という言葉がどこかに書かれていた気がするが、私達に比べて感じる力が強く、勘が鋭いのだろうということは想像がつく。世界を感じ取るために神経や心を研ぎ澄ませてきただろうし、そうせねば世界をここまで理解することはできなかったと思う。

一般に先天性の盲聾者がここまで世界を理解できるのかは分からないし、誰でもヘレンほど頑張れるとも思わない。この本を読んでいると、ヘレンは健常者であっても何かを成し遂げるだけの好奇心の強さと 意志の強さを持った人だと強く感じる。
健常者だったら奇跡の人ではなく天才と言われる人になっていたかもしれない。それほど意志の力や集中力、そして記憶力がずば抜けていると思った。

ヘレンの文章を読んでいると、見えている私達と同じように世界を正確に捉えているように思えるが、実際にはヘレンが感じている世界は私達と同じではないだろう。
だけどヘレンに関しては、いくつかの単語を覚える頃まで聴力はあって、発声器官を使った体験があり、また見えていた記憶がおぼろげでもあるので、それを手掛かりにかなり正確に世界を想像できていた可能性はある。
1つでも手がかりがあれば、言葉と想像で埋めていくことは不可能ではないような気がするのだ。
暗闇と静寂しか知らない先天性の盲聾者がどこまで世界を理解できるかは私には想像ができないが、少なくとも目に多少でも光が入り、多少でも音の存在を感じ取れる人ならば、そこからの僅かなヒントを頼りに世界を広げていける可能性はあるのだと思った。並大抵の努力で出来ることではないが、当事者だけでなく 周りも諦めなければ希望はあると思った。

そして、これだけははっきりと言える。
言葉の理解の有無が、その人の人生を大きく左右するということ。
言葉さえ獲得すれば、周りの支え次第で 健常者以上の業績を残すことだって可能だということ。

私はこの本で「ことば」の大切さを知った。
そして、盲聾者の内側は私達となんら変わりなく、同じように成長し、考え、苦しむのだと感じた。
ヘレンは情報を遮断されていた。知性が脳に閉じ込められ、出口の無い苦しさに怒りを爆発させていた。
発達障害などで相手を理解できない、自分の伝えたいことが伝えられない、そういう人もまた不自由な肉体に心が閉じ込められている人達だと言える。

多くの人に支えられたヘレンは恵まれているように見える。
確かに恵まれてはいるが、その後の人生を選び、果敢に前進し続けたのはヘレンの努力である。ヘレンが人一倍努力家で一所懸命だからフォローする人が現れ、道が開けたのだと思う
これは障害にのみ言えることではない。
何事であっても、諦めずに懸命に取り組み、前に進んでいれば、必ず必要な人に巡り合えるものなのかもしれない。
願わくは努力するすべての人達が、必要な人に巡り合えますように。

この本はヘレンが22歳の時の著作である。
その後に書かれた自伝もぜひ読んでみようと思う。

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