新しい時代~私が目指したい世界

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からだのエッセイ

からだのエッセイ 第8回

平成が終わり、令和が始まった。
新しい時代の始まりに、自分の思考がぶれないように、自分の意志を見つめ直すことにした。

私は聴覚障害を通して、障害には健常な体では想像することのできない不便さがあることを知った。
同じ聴覚障害でも、他人の苦しみまでは分からないことも知った。
他の障害になると、私は一転、健常者の立場になるので、全く分からない。
自分が他人になることはできないので、これは永遠に分からないことだが、少しでも知ろうと努力することは大切なことだと思う。
そして、皆も、他人を知る努力をすれば、きっと世の中は今よりも優しくなると信じたい。

元々ブログを始めたのは、学んだことをできるだけ分かりやすくまとめ、1人でも多くの人の知るきっかけになればいいなと思ったことが始まりなのだが、いざ始めてみると、まとめる前に、次々に興味が広がってしまい、なかなかまとめるに至っていない。アップするからには出来るだけ正確にと思うと調べる量が増えて、ますます まとめづらくなるのも要因になっている。
だけど伝えたいことは、折々まとめていこうと思う。
長く続けるためにも、堅苦しく考えず、役立つ情報だと思えば何でもアップしていく方向で気楽にやっていこうと思う。

(注)最近、障害者の「害」の漢字を使うことにいろいろな意見があるので、敢えて補足しておく。私が「障害」の文字を使うのは、障害者=”その人を指す”のではなく、”障害なるものを抱えている人”と捉えているからである。言い換えると障害者の障害は、障害物競走のハードルが高いというような意味で捉えている。実際に障害を負うとハードル高いなあと思うので、私個人としては一番しっくりくる。
思うことを正直にズバッと言うと、障害者の「障害」の文字にこだわる人というのは、心のどこかに障害者を障害だと思っているから不快に感じるのではないかと思うのである。私はそういうふうに思う人がいなくなる世の中になって欲しい。障害はハードルを指す。障害者はその高いハードルを跳ぼうと頑張っているチャレンジャーなのだと思う。

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■私が目指したい世の中

1つだけ、私にはぶれたくないことがある。
私が目指す方向である。
世の中は健常者仕様なので、障害を負うと、どうしても健常者との間に壁が出来てしまう
この健常者との壁を取っ払うという思考だけは ぶれたくない。
現在、障害者は福祉に支えられてはいるが、福祉で全ての不便をカバーできるわけではない。より自由を求めるならば、やはり 世の中の仕様が全てバリアフリーになることだと思う。
車イスでも1人で安心して出かけられる街、見えなくても常に安全に誘導してもらえるアプリやロボット開発、聴こえなくても正確に音声情報が文字変換されるアプリなど。
テクノロジーの進化とともに、これまでは出来なかったことが、これからは出来るようになる可能性も高くなっている。
これから到来する高齢化社会を考えれば、障害者が自立できる社会は、誰もが安心して暮らせる社会でもあると思う。
そして世の中は、障害者も健常者と肩を並べて働ける社会を目指さなければいけないと思う。
私自身も、障害者の自立を常に意識したいと思う。

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■聴覚障害者の抱える問題について思うこと

私にとって最も身近な障害は聴覚障害なので、聴覚障害について思うことも書いておこうと思う。
聴覚障害と聞くと、耳が聴こえない障害だと誰でも思う。
実際に、聴こえない人が認定される障害なので、聴こえない障害であることに変わりはない。だが、聴覚障害は言語の獲得に影響が出るので、障害を抱えた時期によって抱える問題は大きく違ってくる
以下に、現在、私が問題だと感じていることを3つ挙げる。

1.先天的に聴こえない子どもの教育

先天的に聴こえない子どもは、教育無しに言葉を覚えることはできない。
学校のカリキュラムは、基本的な日本語を言葉として獲得していることを前提に組み立てられているため、言語を聴いたことがない聾児(ろうじ)は言葉の壁にぶつかることになる。
健聴者は勘違いしてしまうが、国語は日本語の文法を基礎から教えているわけではない。
日本語を知っていることを前提に、勉強を教えているのだ。
手話には助詞がない。手話を言語としている子ども達は助詞を理解しないまま大人になってしまうことも多く、そういう場合、社会に出てから苦労することになる。
詳細は、【先天的に聴こえない聾(ろう)者】と【中途失聴者】では抱える問題が大きく違う。「ろう者の祈り」を読んで(感想文)に書いている。
私自身、聴こえない子どもの教育については対策が必要とは感じていたが、どうしたら良いのか分からなかったのだが、「ろう者の祈り」という本が、この問題について分かりやすく説明している。
教育の問題はこれだけではないのだが、聴覚障害児は、まず言語の獲得という壁を乗り越えねばならない。そのためには、どのような家庭環境にいようとも、日本語が身につくように配慮されねばならない。これは強く思う。それと同時に日本語が苦手な大人にも、日本語を学べる場を作る必要があると思う。“聴こえる人の当たり前”が盲点になりやすいと痛感する。大事なことが抜け落ちてしまわないように、教育の配慮はもっと必要だと思う。

2.聾者(ろうしゃ)の定義の曖昧さが招いている問題

私は成人してからの中途難聴で、軽度から始まるゆるやかな進行性のため難聴歴は長いが、障害歴は浅く、聴覚障害者と交流する数年前までは、耳の知識はあっても障害の知識は全く無かった。
「聾(ろう)」についても、はっきりした定義を知らなかったので ネットで調べてみると、当時は「耳が聞こえない人」とシンプルな表現が出てきた。
今、調べると、「生まれつき聴こえないか 言語獲得前に聴力を失った人」「アイデンティティ」「日本手話使用者」「聾社会に所属している人」など多様な説明に変わっていて、単に「耳が聞こえない人」との一言説明は見なくなった。
それだけ聴覚障害への配慮・関心が高まったと言えるのだが、聴覚障害者の中では、定義が勝手に変化することにより揉め事も発生している。なので「聾」の定義ははっきりさせるべきだと私は思っている。
定義が曖昧になる大きな要因は、身体障害者手帳の2級(聴覚障害に1級はない)の説明に、「両耳の聴力レベルがそれぞれ100デシベル以上のもの(両耳全ろう)」と、失聴者を「ろう」と表現していることが大きいと感じる。なぜならば、これを見て大人になってから中途失聴した人が「私は聾です」と言っているからである。
そして、聴覚障害者同士で「定義は何だろう?」と話をすると、「自分が聾だと思えば聾だし、そうでないと思えば聾ではない」と言う人が多く、こうなると、聴こえていても自分が聾だと思えば「聾」ということになり、聴覚障害者を指す用語ではなくなってしまう。
中途障害者にとってはこの問題は特にこだわるほどのものではなく、誰でも使いたければ使えばよいではないかで済むかもしれないが、いろいろな人が「私は聾です」と言い始めると、「聾」という名称に何かしらの所属意識を持った人は気分の良いものではないと思う。少なくとも流行のように「私は聾です」と突然言い始めて、嫌になったら「私は聾ではありません」などとコロコロ表現を変える人とは線引きしたくなるだろう。
ただ、線引きに躍起になっている人達の中に、同じ先天的障害者をも仲間からはじき出す言動をする人がいることをよく耳にする。これはとても悲しい。
「聾」という名称は文化的要素にも使われているので、人によって定義はまちまちで、単純に聴覚障害の基準に持ち込むと話がややこしくなる。この辺のことは、「デフ・ヴォイス 法廷の手話通訳士」を読んで思ったこと(感想文)の中で詳しく触れているので、ここでは詳細な説明は省く。

早い話、身体障害者手帳の等級の説明から「両耳全ろう」の文言を外し、「聾(ろう)」という名称と、聴覚障害は切り離した方がよいと私は思っているのである。(※現在は口話教育で聾者も話せるようになったので聾唖と表現することはなくなり、身体障害者手帳も聴覚障害は聴力のみで判定。音声機能や言語機能は別の判定基準があるので、敢えて「ろう」の言葉を使う必要性を感じない。)

以下にそう思うに至った理由を述べる。
聴覚障害の問題は、大きくは2種類に分かれると思う。
1つは純粋に聴覚の障害のみの場合。音声で日本語を獲得した後に聴覚に障害を負った中途障害者がこれに当てはまり、言語は耳で獲得済みなので、音や音声が聞き取れない問題をどうするかに問題は絞られる。
もう1つは先天的もしくは言語獲得前に失聴し、言葉の獲得に大きな困難を抱える(抱えてきた)人達である。
前者は 元々が普通に音声で会話していた人達なので 手話ができない もしくは 苦手な人が多い。そして、聴こえなくなった後も 自分が話す時には音声を使う人が多い。
後者は、育った家庭環境や教育環境により手話を使う人もいれば 使わない人もおり、抱える問題も多種多様である。多種多様だが共通するのは、音声言語の獲得に苦労をしていることだ。
この苦労は、同じ聴覚障害者でも、言語獲得後の中途障害者には想像のできない苦労である。

言語獲得期の幼少期に聴こえていた人達は、赤ちゃんの時から 言葉は勝手に耳から入って来る。日常生活の中で 何度も話しかけられたり、家族の会話を耳にしている内に、自然に意味も理解する。発音は舌が滑らかに動くようになるまでは 俗にいう赤ちゃん言葉を発しているが、聴こえているので成長とともに、正しい発音に自ら正すことができる。
元々聴こえていた人は、言語は自然に聞いて身につけているので、失聴しても日本語にコンプレックスを持つことはない。一方で、先天性の聴覚障害者の場合は きちんと発音を身につけている人でも、自分は発音がおかしいと思っている人が多く、コンプレックスを抱いていることが多い。
これは大きな違いで、耳の機能が失聴していることが共通していても、先天性の聴覚障害者と中途障害者の心の中は全く別なのである。
だから私は、」の定義は 言語獲得前に障害を負っている人の呼称とし、日本語獲得に苦労していない中途失聴者は定義から外すのがよいと思う。中途失聴者の場合、「聾」の名称に 特に強い思い入れはないと思うので 定義から外しても問題はないと思う。
難しいのは、先天性の聴覚障害者間の問題である。
問題が生じているのは「日本手話」を使うか使わないかで「聾」を定義する考えである。なぜ問題かというと、手話には「日本手話」と「日本語対応手話」の2種類があり、言語(文化)で「聾」を位置づけようとの考えは「日本手話」限定となるため、口話のみで手話を使わない聾者や「日本語対応手話」を使っている聾者が「あなたは聾ではない」と言われて深く傷つくことが生じているのである。
「聾」だと思って生きてきた人を、急に新たな考えを持ち込んで勝手に線引きすることはあってはならないことである。
この辺りのことは、いろいろな心情が入るので、すぐに解決する問題ではないが、少なくとも新たな火種を作らないためにも、身体機能である「聴覚障害」の定義に「聾(ろう)」を使うのは止めた方がいいと思うのである。

理想は、未来の子ども達が、健常、障害の別なく、平等に生きられるようになることである。
障害を障害とは感じない世の中にするのは、とてもハードルが高い。聴者社会の中で出来るだけ不便を無くしていくためには、少数派の聴覚障害者が割れているようではいけない。
障害者本人は苦しい。だけど自分達だけが満足すれば良いというのでは 世の中は改善されない。未来の子ども達がどうすれば障害を苦にすることなく暮らせるようになるのか、自分も含めて、皆がそういう視点で考え行動できるようにならねばならないと思うのである。

3.聴覚障害者の多くは手話は使えないという問題

最近の手話の普及は目覚ましい。
聴覚障害者への配慮の動きはとても嬉しいことである。
一方で、手話さえあれば大丈夫との誤解が生じていることに懸念を抱いている。
「聴覚障害者=手話ができる」とのイメージが強まると、手話を使えない多くの聴覚障害者が困ったことになる。
日本語をきちんと学べなかった聴覚障害者には手話でのフォローが必要なのだが、聴覚障害者の多くは日本語で育っている。
中途障害者を想像してもらえば分かりやすいと思うが、ある日突然耳が聞こえなくなった人が、急に手話で話すようになるだろうか。ならないに決まっている。どんな言語でも今まで全く知らなかった言語を身につけるのは容易なことではない。
そして多くの障害者は周りが手話を使わない環境で働き暮らしている。要するに手話を覚えても日常生活に役立てることができないのである。
聴覚障害者の多くが望むのは「文字」である。
筆記(文字)による情報保障を求めている人は多い。
誤解が生じないように付け加えておくが、手話で育った聴覚障害者は文字情報より手話が必要である。日本語が苦手な人がいるので、このフォローは絶対に必要である。
一方で、日本語で育った聴覚障害者は、聴者と同じように第一言語は日本語なので文字情報を求める人が多い。この配慮も無ければ非常に困る。
もしも、手話が日常生活の中でも使える時代が来たならば、難聴者が手話を身につけることで不便は解決するかもしれない。だけど現実は日常で手話を使える場面はない。手話だけで解決できない問題の方が多いのである。
日本の聴覚障害者の認定基準は厳しい。そのため身体障害者手帳の基準を満たさない多くの難聴者が、障害者と同じく言葉の聞き取りで相当な苦労を強いられている。
だから、もっと世の中に文字情報・視覚情報が充実して、身体障害者手帳を持っていない多くの難聴者も 不便なく暮らせる社会になって欲しいのである。

最後に・・・
障害者の多くは、フォローが必要だと感じているのに、自ら 声を上げない人が多い。この傾向は健常者も同じなのだが、障害者は数が少ない。それだけに「誰かがやってくれる」「自分には関係ない」では社会は変えられない。
障害者認定を受けているか否かに関係なく、1人でも多くの難聴者や障害者が声を上げることはとても大切なことだと思う。
そして、健常者にもお願いしたい。障害者個人が改善を訴えても弱者個人の意見は大抵は黙殺されてしまう。数が集まらないと事は動かないので、「助けよう」との健常者の声はとても大きなエネルギーになる。なので ぜひ協力して欲しいと思う。私も聴覚障害だけでなく、他の障害への配慮・改善にも協力したいと思う。
令和という新しい時代は、人に優しい社会へ変化する時代であって欲しいと願うとともに、自分にできることは積極的に行動せねばと、決意を新たにしているところである。

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