自分の視点や意識が変われば世界は違って見える(障害者差別について)

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からだのエッセイ

からだのエッセイ 第9回

物事は見る角度を変えれば違って見えるという話は、いろいろな人がしています。
一番よく耳にする例えは、コップを出してきて「これはどんな形をしていますか?」という話でしょうか。
円柱型のコップなら、上から見れば「丸」、真横から見れば「四角」。
一方向から見ただけで「このコップは丸」だと決めつけてしまえば、見ている方向によっては「四角」だと思っている人がいることに気付けません。
決めつけてしまうと、視野を狭め、物事の本質を見抜けなくなってしまいます

人間関係の話でよく耳にするのは、「子どもを産んで初めて親の気持ちが分かった」という話。
会社の中でよくあるのが、外回りと内勤の間で、互いに「ずるい」と感じる人が出てくる話。
大きなところでは、経営者と従業員の考え方の違い。従業員にとっては雇用条件が一番の関心事、経営者は利益を出さないと倒産してしまうので儲けることが一番の関心事。
苦しい時ほど弱音を吐けない経営者の孤独などはその立場にならないと想像できないことかもしれません。
どんなケースでも、立場が逆転して、はじめて理解できることは多いです。

私が今日話をしたいと思っているのは、障害者への差別の話です。
障害者に関わらず、弱者全体に同様のことが当てはまりますが、今日は自分の体験を通して話したいので障害者に絞ります。
ここに書くのは「差別はいけません」というより、意識を変えましょうという話です。
ここでこの文章を書いている私の心の中にも差別を生む感情は存在しています。
この差別を生む感情とは 感受性そのものを指すので、感受性を持っている人ならば、誰でも差別の心を持つ可能性はあります

私達は、自分の体を通してしか世の中を見ることはできません
生まれた時に身体に障害があったとしても、生まれて来た当人は自分しか知らないのでそれが正常だと思っています。
それが成長するにつれ、自他の区別がつくようになると、周りの人と自分が違うらしいことに気付き始めます。
見える障害は気付くのが早いですが、発達障害のような見えない障害の場合は、大人になっても障害に気付かず、人と同じように出来ないことに悩み続けるケースも多いです。

一方、健常と言われる人達は、一番数の多い標準的な機能レベルの人達なので、周りとの大きな違いを感じませんから、何の疑いもなく自分の状態がごくごく当たり前だと思っています。

すると、相手の反応や姿が、自分の中の常識と大きく外れると、「え?」となります。
この「え?」と思った時の感情が受け入れたくない方に感じた時、その心が差別意識の芽になります。この芽が成長するか、消滅するかは、その後の思考や、周りの反応に影響されます。

自分と違ったものに遭遇した時、一瞬頭が混乱するのは防止できません。だけどその時の感情をどう受け止めるかは本人の知識と心の育て方で変わってきます
知識が無いと自分と違えば不気味に感じたり、不安になったりします。
どう対応すればよいのか分からなければ、居心地も悪いです。
でも何が違うのか、どうして違うのか、どうすればよいのか等を把握できれば不安はなくなります
だからこそ、知る努力をすることは大事なのです。
そして、逆の立場だったらどうだろう?と、日頃から考えることも大切です。
この相手の立場を考える習慣を身につけたならば、普段の人とのお付き合いや、ビジネスにも役立つので、ぜひ習慣化して欲しいと思います。

以下の内容は、これが正しいというものではありません。
私自身が、障害者を見る目が変わったという体験談を綴ったものです。

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■発達障害への見方が変わった

私は保育士の資格を持っています。
社会人になってから、無性に人間のことを学びたくなって、大学の通信制で学びました。
本当は子どもから大人まで、人間そのものを学びたかったのですが、働かなければ生活が出来ないので通学は諦めて通信で探して巡り合ったのが「保育」だったのです。
通信教育は、各科目のレポートの提出と試験、それと定期的に行われるスクーリングで単位を取っていくしくみで、最後に、幼稚園、保育所、入所施設での実習が必須です。
学問がしたくて入学した私は、レポート作成が楽しくてしかたがありませんでした。通勤の電車の中など使える時間は全て書物を読み漁る毎日でした。
今はどうか分かりませんが、十数年前に私が学んだ時の教科書にはあまり障害児のことは詳しく載っていませんでした。
当時、たまたま私の友人の子どもが「高機能自閉症」との診断を受けて悩んでいたので 発達障害に興味を持っていたのですが、いろいろ調べても、よく分かりませんでした。外から観察しての特性を記した書物はあっても、具体的に内面で何が起こっているのかを説明したものがなかったのです。
そこで、自閉症の子どもを持つ友人に自閉症のことをもっと知りたいと相談しましたら、「自閉症だったわたしへ」という高機能自閉症の人が書いた自伝を紹介してくれました。
これは自閉症当事者の自伝ですから、自閉症者側から見た世界が書き綴られており、何もかもが私には新鮮で、発達障害の見方がガラリと変わった1冊でした。
もちろん自閉症は知的障害を伴うケースの方が多いので、全ての子どもが著者のように話したいことを表現できるわけではありません。更に、自分の感情の動きを表現できる人はもっと少ないでしょうし、症状や外界の感じ方も人によって様々だろうと思います。
だけど、たった1人でも、自閉症の人が見ている世界を知ることができれば、自分には想像もつかない世界で生きている人がいるのだということに気付けます
この本を読んでからは、発達障害の人は自分とは違う感じ方や困難を持っていると意識するようになりました。
パニック発作に対する見方や感じ方もガラリと変わりました。
躾の問題だと責められやすい多動性障害に対しても、その子の内面で起こっていることを意識するようになりました。
※文末に「自閉症だったわたしへ」の本のリンクを張っておきます。興味のある方は一度読んでみてください。

私がこの本を読んだことで明らかに変わったと言えるのは、健常者の当たり前は必ずしも当たり前ではないと考えるようになったことです。
もしも、世の中が本の著者と同じ自閉症の人が大半を占めるようになったならば、世の中には違う常識が生まれただろうと思います。
これは自閉症に限りません。例えば聴こえない人が大半を占めたならば、世の中のコミュニケーションは音声以外が当たり前になるだろうし、車イスの人が大半を占めたなら、世の中の仕様は車イス仕様で発展していくと思います。
そう考えると、障害があるから異常という考え方は消えます。
そして、今までならば、障害者だから大目に見なければいけないとか、手助けしなければいけないなど、障害者と健常者という2つに線引きしてしまうところがありましたが、障害者は健常者と別物ではないと思うようになりました。
障害があるという事は、明かに不便を抱えているという事ですが、障害のある部位以外は健常者と同じです。
生まれ持って与えられた体を使って、精一杯、それぞれの人生を歩いているのは、健常者も障害者も同じです。
だから障害があるからと、人格を否定することなどあってはならないし、障害者であることを理由に拒むことなどあってはならないのです。
また逆に、障害があって可哀想だから、何もさせないというのも間違っています。
障害で出来ないことに配慮する必要はありますが、出来ることまで障害者だからとやらせないのは間違っているのです。行動する権利を奪うこと、これも立派な差別なのです。

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■重度の知的障害児と出会って

私は保育実習の入所施設に「知的障害児」対象の施設を選びました。
大変だろうことは覚悟して実習をお願いしましたが、想像以上に大変な仕事でした。
入所している子ども達は小学生~高校生が中心で、幼児は1人ぐらいしかいませんでした。
障害の程度は個人差が大きく、中学生になっても片言しか話せない子どもも多かったです。
施設内は安全に配慮し、子ども達は建物内なら自由に動き回れます。
なので、目の離せない子どもには必ずスタッフが付いて回るようにしていました。
私は10歳から15歳の子どもを担当することが多かったのですが、言葉を話せる子どもが少なくて、中にはトイレ介助が必要な子どももいました。
最初は戸惑いました。

正直に書きますと、最初は、全員、同じ知的障害児というふうに見ていたと思います。
ところが毎日触れ合う内に、1人1人 障害特性は異なるし、性格も異なることに気付きます。障害レベルが重いので、第一印象は無気力に見えますが、皆、不自由な体で一生懸命生きているということも感じるようになりました。
すぐに激しい癇癪を起こす子どもも、その子の視点に立って観察していると、自分の思いを伝えたいのに言葉に出来ないジレンマに苦しんでいることが分かるようになってきます。
トイレ介助が必要なレベルの子どもの中に、いつもどこを見ているのか分からないような目をあちこち向けながら歩き回る子がいましたが、無表情に見える顔から、時々表情らしいものが浮かぶことに気付きます。お正月で皆が一時帰宅で去って行く姿を窓からながめていたことがあったのですが、いつもと違って理性を感じる表情にドキッとしました。普段言葉を発しないのにその時だけ「くるま、のりたい」とポツリと発し、その後はいつもの無表情でぶらぶら歩き始めます。
どこまで認識しているのかは分かりません。だけど施設のお友達が次々と車に乗って外の世界に出て行く風景に何かを感じていたのは確かです。
どのレベルの子どもも、その子のレベルでいろいろ感じ取っています。そして、彼らなりの思考を働かせています
しばらく一緒に生活をしていると、彼らはすごく 成長が遅いけれど、その子なりに成長しているのが分かってきます。
少しずつ興味が広がったり、少しずつ言葉が増えていきます。身の回りのことも少しずつ出来るようになっていきます。

保育の現場とは無縁だった時には、ただ鬱陶しいと感じていただけの迷惑な行動も、その行動を引き起こすものを見るようになりました。
彼らの脳内で、どのようなことが起こり、彼らがどのように感じているのかは分かりません。
だけど間違いなく、与えられた不自由な体の中で頑張っている人格があるのです。
パニックになると手が付けられなくなりますが、これも一番苦しいのは本人です。自分の体が思うようにコントロールできない状態がどれだけ辛いことなのか、やはり想像の域を抜けることはできませんが、それでも想像しようとすることが大切なのだと思います。

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■長所は大切にしてあげたい

実習とは別で、知的障害児施設のイベントにボランティアで参加したことがあります。
お手伝いに来ていた人の中に、関連施設で働いている知的障害者の方がおられたのですが、そこで印象的な場面に遭遇しました。
ある子どもが 体調が悪かったようで、突然嘔吐したのです。
それを見て、その手伝いに来ていた障害者の方が、自ら機敏に動いていたのが印象的でした。すぐに部屋を飛び出したと思ったら、手に雑巾とタオルを持って戻ってきて、タオルをスタッフに渡し、自分は雑巾で汚れた床を掃除しながら、嘔吐した子どもに気遣いの言葉をかけていました。
その後、この障害者の方と何度かお会いする機会がありましたが、とても真面目で、自分の仕事に誇りを持っているのがすごく伝わってきました。
すごく純粋なのです。
知的障害を抱えていることはすぐに分かります。でも、この真っすぐさは信頼できます。これは大きな長所だと感じました。

私が実習をしていた時、施設には次の春から就職することが決まっている2人の高校生がいました。
話をすると2人とも素直で良い子でした。
実際の社会の厳しさを知っている私は、彼女たちと話しながら、いつまでもこの笑顔が消えることなく働けるといいなと心から思いました。

知的障害者もいろいろでしょうが、私が出会った人は、素直な人が多かったです。
彼らにはケースバイケースというのがないので、悪いことと良いことの概念は比較的はっきりしています。
社会では、この特性が苛めの対象になることもあります。だけど、素直な心は人としての大切な長所ですから、それを社会が踏みにじらないことを祈るばかりです。

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■偏見や固定観念を捨てると 見えなかったものが見えてくる

私は、偏見なく障害者を見ていたつもりでしたが、やはり心のどこかに知的障害者(障害児)への抵抗を抱え、無意識に線を引いていたということに気付きました。
彼らを知る前は、子供だと思う前に、障害児という目で見ていたのです。そして、個人として見る前に、やはり障害児として見ていたのです。
だから、小学生や中学生に、幼児期に見られる発達の過程が見られた時は驚きました。
頭から無理だと決めつけていた自分がいたのです。
障害児は、健常児に比べると すごく成長は遅いのですが、ゆっくりでも成長しています。
ところが私は、体の大きさに惑わされて、幼児期の発達過程を、今、通過しているのだとは考えもしなかったのです。
もし周りの大人が諦めて放置してしまえば、その子が伸ばせるはずだった能力さえ伸ばしてあげることはできません
障害があるから出来ないことは当然あるけれど、教えれば出来ることはたくさんあります
知的障害レベルが重くても、どれだけスピードは遅くても、子どもは成長するのです。
人にレッテルだけは貼ってはいけないと肝に銘じました。

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■教育に対して思うこと

私達は生まれた時は、真っ白です。
自分に障害があるとか健常だとかそんなことは考えていません。
生まれた状態が、その子にとっての当たり前なのです。

障害がある子も、ない子も、最初は何の疑問もなく一緒に遊んでいます
自我が芽生え始めると、自分と他人という概念が生まれ、見た目が自分と違えば「なぜ?」という素朴な疑問が浮かびます。だけど、その時点で差別の心はありません。好奇心があるだけです。
幼稚園児は素直です。
大人が適切な指導をすれば、障害児を大切なお友達としてお世話するようになります
障害児を囲んでワイワイと笑顔です。
親や周りの大人が、障害者に対して しかめっ面をすれば、そういう存在なのだと子どもは受け止め、仲間外れをするようになります
心無い大人が1人いるだけで、その大人に接した子どもを通じて差別に発展するケースもよくあります。
真に差別を無くしたいならば、幼児教育からきちんと正しいことを教えていくべきだと思います。
当然、学校教育も同じです。
教師の態度が障害児に冷たければ、子ども達は障害児に線を引きます。度を超えた特別扱いも反感を買う要因になります。教師は適切な指導ができなければいけません。
そして教師自身の心も子どもに影響します。
教師に偏見があれば、態度や言動に出てしまいます。子ども達はそれを敏感に感じ取ってしまうでしょう。
現代は正しい躾ができない親が増えており、躾を家庭だけの問題にしておけない時代です。ましてや大人が持っている差別意識を突然無くすことは難しいので、親に頼っているようでは、いつまでも差別はなくならないのです。
それだけに、子どもを教育する立場にある方々の言動、行動はとても重要です。

2016年に障害者差別解消法が制定されましたが、残念ながら今も差別は無くなっていません。
困っている人に配慮ができないのは、思いやりのある正しい意識と行動を身につけている人が少ないからだと言えます。

障害者への差別を真に無くすためには、教育段階で、健常児と障害児の垣根をどうすれば低くできるのかということが、もっと検討されなければならないと思います。
そして、もう1つ、社会に出た時、あまりに社会が障害者に厳し過ぎることも大きな問題です。学生時代は楽しく頑張れていた優秀な障害者が、社会に出た途端に潰されてしまうことも多いのです。
潰すのは企業に配慮が足りないだけではありません。そこで働く人達によって潰される話が多いのです。それは個人が持つ差別意識です。
社会の環境整備は急務です。それと同時に 人の意識の変革も急務だと思います。

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■最後に

私の話を長々としましたが、私の場合、お話した通り、元々持っていた障害者のイメージを変えたのは保育での学習と経験がきっかけでした。
変えたと言っても、私が感じていることも、一面的です。
障害児の視点は欠けているし、障害児の家族の視点も欠けています。
実際に現場で支えている人ほど問題点も見えていません。
また、別の視点に、国や行政など支える側の人達の言い分もあるでしょう。

立場が変わればいろいろな思いや考えがあるのは当然です。
だけど、どの立場の人も、決して無視してはならないのは、自分が当事者や当事者家族になった時、これで良いのかということです。
自分の子どもが、迷惑がられたり、差別されたらどんな気持ちになるでしょう。
自分自身が、苛められたり、疎外されたら、平気でしょうか。
目の前にいる友人・知人が、自分が障害で出来ないこと(例えば、落ちた物を拾えない等)に困っているのに「自分でできるでしょ」と手助けしてもらえなかったら どんな気持ちになりますか。障害や病気に対して関心を持たないがゆえに、知らず知らずに酷いことをしているのも立派な差別なのです。

障害は他人事ではありません。
誰でもある日突然、障害者側になる可能性を持っています。
突然交通事故で片足を失うかもしれません。
脳梗塞で倒れて、脳に障害が残るかもしれません。
ある日、目を覚ましたら、耳が聴こえなくなっているかもしれません。
心待ちにしていた赤ちゃんが障害を持って生まれて来るかもしれません。
どの障害も、自分たちが望んでそうなるわけではありません。
望まないのにそうなってしまうのです。
だからもっと身近なことだと思って、真剣に考えるべきだと思うのです。
自分がそうなった時、どんな社会ならば良いでしょうか。
自分が障害を抱えた時、暮らしやすいと感じる社会はどんな社会でしょうか。
皆が、その視点で考え、こんな社会なら良いなあと思う社会を目指すべきだと思うのです。

もちろんこれは障害に限ったことではありません。
非正規で働かざるを得ない人の暮らし、シングルマザーの置かれている現状、なぜ弱者が生まれるのか、どうすれば弱者が無くなるのか、そういう視点がなければ幸せな社会は生まれません
国や自治体も、そういう視点で施策を立てなければならないと思います。
弱者をなくす施策は、少子化防止にも繋がるのですから。
誰もが安心して暮らせる社会というのは、明るい未来を切り拓く力を生むと思うのです。

願わくは、全ての人が思いやりを持った行動ができるようになりますように。
そして、誰もが暮らしやすい社会になりますように。

[参考]
文中に出て来た書籍「自閉症だったわたしへ」は3巻あり、子どもの頃から大人になってからのことまで書かれています。
発達障害を知らない人、特に発達障害を性格的な問題と混同してしてしまっている人には、子ども時代のことが書かれた最初の1冊だけでも読んで欲しいと思います。

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