善と偽善、思いやりと同情

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ひとりごと

[ひとりごと8]

「善」は喜ばれるけど、「偽善」は貶される。
「思いやり」の心はすすめられるけど、「同情」をすすめられることはない。
善も情も、同じことをしていても人によって感じ方が違うのはどうしてだろう。
そんなたわいもないことを考えた。

最初に気になったのは、それぞれの言葉の意味。
言葉は人によってニュアンスが異なることがあるので、自分の認識があっているのか気になって、広辞苑で調べてみた。

「善」とは、「①正しいこと。道徳にかなったこと。よいこと。②すぐれたこと。このましいこと。たくみなこと。③仲よくすること」
「偽善」とは「本心からでなく、みせかけにする善事」
今回私が取り上げている「善」は ①のことだが、ここでの私の話では「良いこと」という意味合いが強い。

「思いやり」と「同情」も調べた。
「思いやり」とは「①思いやること。想像。②気のつくこと。思慮。③自分の身に比べて人の身について思うこと。相手の立場や気持を理解しようとする心。同情」
「同情」とは「他人の感情、特に苦悩・不幸などをその身になって共に感じること」
私の持っている辞書では、「思いやり」は3種類の意味が書かれていたが、ここで取り上げているのは③の意味。
「同情」は予想よりあっさり書かれていたが、私のイメージはこれだけではない。これだけだと「同情」が嫌われる要因が分からない。

そんなこんなで「偽善」と「同情」について考えた。

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■偽善は心の問題

偽善のことを考えると、私の頭に浮かぶのは自分の過去。
私は子どもの時に植え付けられた思考の影響で、思春期はずいぶん世の中をひねくれた目で見ていた。
世の中には純粋な善などなく、全ての善は偽善だと思っていたのである。

私が3年間通った幼稚園はカトリックだった。
カトリックの幼稚園なので神様の話がしょっちゅう出て来た。
悪いことをして叱られる時「誰も見ていなくても神様は見ていますよ」と言われた。
善い行いをしたのに誰にも褒めてもらえなくて泣く子がいれば「いつでも神様は見てくれています」と言っていた。
いろんな場面で「神様が見ている」を何度も聞かされた。
幼い私は素直にそれを信じた。
小学校に入学してからもずっと信じていた。
誰も見ていない所で善いことをした時は「神様は見てくれている」と自己満足に浸っていた。

小学校の何年生だったかは忘れたけど、ある日の放課後1人で掃除をしていた時、誰も見ていないけれど真面目に丁寧に掃除する自分に「神様が見てくれているから」と自分を慰めている事実に気がついて大きなショックを受けた。自分の心の矛盾に気づいた瞬間だった。

幼稚園では神様の話を通していろいろ道徳的なことを教えられた。
その中で、見返りを求めない善意の行動が良いことであることを私は学んだ。
これは間違ってはいないし、真に実行できれば素晴らしいことだと今も思う。
でも真に実行するのは難しい。
私は人に知られず行う善行ほど美徳だと思い込んでいて、幼稚園卒園後はこっそり良いことをするようになった。
子どもだった私の善とは大層なことではなく、身近な人助けとか、親切とか、他人のゴミをそっと拾うとか、規則を守るとか、そんな程度ではあったが、そういうのを心がけていたわけである。

誰も見ていないところで誰にも知られることなく良い行いができる自分は偉いと思っていたし、友達に気遣わせないように そっと親切をする自分を優しいとも思っていた。
でも、よく考えてみると、自分の行為を自分で偉いとか優しいとか評価している時点で見返りを求めない精神からはほど遠い。
そんなことには気づかず 最初は気持ちよく実行していたのだが、誰にも気づかれない行為は実際には報われない。
裏でさぼっている子が 大人のいる所でだけ良い子を演じて褒められるのを見るとずるいと思ったし、誰も見ていないところで一所懸命奉仕活動しても誰も気づかないどころか、時に人の手柄にされてしまうのはやっぱり悲しかった。

それでもしばらくは頑張った。
でも心の中は「誰かに褒められたい」「私がこっそり頑張ったことに誰か気づいてくれないかな」そんなことばかりが浮かぶようになり、やがて「誰にも知られないのは虚しい」と感じるようになっていた。
そういう気持ちになるたび「神様は見てくれている」と自分を慰めていたのである。

私が自分の心の矛盾に気づいた日は、その先があった。
はじめて神様を疑ったのである。
「本当に神様は見てくれているのかな?」「神様って本当にいるのかな?」と。
神様を疑いはじめると、「見ていないなら自分はどうするの?」と考え始める。
すると嫌でも自分の心の矛盾に気づく。

この気づきは、とてもショックだった。
自分の心は醜いなあと思った。
人が見ていることを望むのも、神様が見ていることを望むのも、心の動きとしては同じこと。
「神様が見ているから」と教えた幼稚園を恨めしくも思った。
私はずっと美しい心の人、優しい心の人に憧れを持っていたのだが、一転、そういうのが大嫌いになってしまった。
その時に思ったことを言葉では思い出せないけれど、その時の感情を今、言葉で表現してみると「きれいな心なんてクソ食らえだ!」みたいな感じである。
この時から私の神様不信は始まり、すべての宗教が嫌いになった。
信じていたものを根底からひっくり返された反動は大きかったようで、私は世の中の「善」はすべて「偽善」だと思うようになり、「善」を嫌うようになってしまったのである。
一時期の私は人に優しい言葉をかけることさえも偽善に思えて躊躇した。

ちなみに私は無神論者ではない。
人間が作った宗教が信じられないだけである。
感覚的に一番しっくり来るのは、全てのモノに神は宿っているという考えかな。
だけど祀るみたいなのは一切なく、拝むこともない。
私の勝手な考えだが、私は誰もが魂を通じて神に繋がっていると思っているので、神を内に求めることはあっても、外に求めることはない。

話を戻す。
幼い頃からずっと信じていた神様に不信を抱き「善」自体を疑うようになってしまった私は、その後、人が善い行いをするのは 自分が気持ち良くなるからだと考え、世の中の殆どの善行はしょせんは自分のためにやっている(偽善)のだと思うようになった。
今振り返っても当時の私は捻くれていたなあと思う。

そんな私が人間は「偽善」だけではないと気づいたのは大災害に遭った時だった。
人の命に関わる災害になると、人は目の前の人を助けようとする
その姿に偽善などはなかった
むしろ本能。
その時、私は人の本質はもしかすると「善」なのかもしれないとさえ思った。
そういう光景を目の当たりにしたおかげで、その後の私は少し素直に人を見つめることができるようになった。

とはいえ、人は「善」だけではない。
そして、「偽善」を感じることもやっぱりある。

だけど、最近の私は「偽善」についてはあまり考えない。
SNSなどを見ていると、災害があった時などに有名人が助けに行くと、偽善だとか売名だとか言っている人がいる。
自分の感情や思い込みで偽善だと決めつけているのを見ると少々不快である。
その行為が人に役立っているなら それは間違いなく「善」である。
「善」か「偽善」かは、それを行う人の心の問題であって、他人が決めることではない

他人が評価できるのは、その行為が有りがたいか 有りがたくないかだけ。
それも当事者だけに分かることであって、第三者がどうこう言えることではない。
そして、当事者がその行為を嬉しいと思うなら、それは間違いなく「善」なのだ。
ついでに言うなら、何もしない人より、たとえ偽善でも行動する人の方が遥かに尊いと思う。

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■不快を感じる「同情」

「思いやり」と違って 嫌う人が多い「同情」。
「同情」を辞書で引くと「他人の感情、特に苦悩・不幸などをその身になって共に感じること」であったが、他の辞書も調べてみると「可哀想に思うこと、あわれみ」を付け足しているものもある。
ここに嫌われる原因があるのだろう。

ちなみに私は 同情は嫌いではない。
同情されて嬉しいと感じることも多い。
そんな私でも、時に不快を感じることがある。
何が違うのか考えてみた。

これは・・・理解の姿勢の差かもしれないと思う。
私は苦しみを理解してくれる人や 理解しようと努力してくれる人に不快は感じない
むしろ有りがたいと思う。
不快と感じるのは、理解ではなく表面的な思い込みを押し付けられる時かもしれない
人は酷く落ち込んでいる時に 同情で声をかけてくる人に対して気遣いに感謝したりする余裕はないのだが、感謝されるために同情する人が少なからずいる
こういう人は はっきり言って迷惑である。
タイプで言えば、放っておいてとお願いすると、心配しているのにと怒り出すようなタイプがそれだ。
可哀想と思うことを同情だと思っている人もいるが、理解のない可哀想という感情ほど腹立たしいものはない
たぶん「同情されたくない」「同情だけはごめんだ」と言う人が指す「同情」はこれなのだと思う。
私もこれは嫌だ。

人の心は複雑だ。
同情もいろいろである。
気の毒な人を慰めたいと思うのも人の心情だが、その時に気を付けたいのは決して自分の感情を押しつけてはいけないということ。
落ち込んでいるのに、勝手な想像や妄想で同情されては堪らないだろう。

ちなみに、可哀想と思う気持ちが悪いわけではない。
むしろそう感じることのできる心を持っていることは大切なことだと思う。
だけど他人を見て 可哀想と思う感情でいっぱいになっている時は黙っている方が良いかもしれない。
なぜなら、可哀想という感情は上から目線なので、相手の自尊心を傷つける可能性があるから。

本来、同情とは目の前の人の心の痛みを感じることであり、可哀想と思うことではない。
可哀想という感情は他人目線の感情であって、これは真の同情ではないと思うのである。

こんなことを考えていて思った。
この相手への理解のなさが、まさに偽善に繋がるのかもしれないと。

落ち込んでいる人に声をかけたいと思った時、ほんの少しでも人からどう見られているかを気にしているならそれは偽善
世間の評価が気になるならそれも偽善
可哀想の押し付けも偽善である。

私にも 他人を可哀想だ、気の毒だと感じる時はある。
そういう心の動きが無ければ 次の行動は生まれないので、こういう気持ちの変化は必要だと思っている。
そして行動も大事である。
今の私は 自分の行為が偽善かそうでないかを意識するつもりはないが、善のつもりで行った行為が人を傷つけるようであれば本末転倒なので そこはできるだけ気をつけたいと思う。

幼い頃に目指して 思いっきり挫折した「善」は 純粋なもの。
純粋ならばそもそも善かどうかなど意識しないと思うので、今の私は偽善であっても誰かが喜ぶなら大いに結構という考え。
なので私は何かをしたい時、真に相手が喜ぶかどうかを指標にしたいと思う。
相手が喜んでくれたなら、それは「善」
それだけは間違っていないと思うので。

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