ナンチョーな私の気まぐれ日記(34)歩きながらの会話が苦手

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ナンチョーな私の気まぐれ日記

会話の話の続きです。
前回は夜に話ができない寂しさ、その前は乗り物で移動中に話せない寂しさの話をしました。
ナンチョーな私の気まぐれ日記(32)移動中の会話
ナンチョーな私の気まぐれ日記(33)夜のお喋り

連続3回に分けた会話の話の最後は「歩きながらの会話」です。

私は成人してから難聴を発症した中途難聴者で、元々は健聴でした。
実際に自分が難聴になってみて思ったのは「こんなの健康な耳では想像できないよ」ということでした。

健康な耳の人も 聴こえないと不便だということは説明すれば分かります。
「想像はつくよ」と言う人もいるかもしれません。
でもその想像には永遠に続く苦しみは入っていません
それに、健康な耳の人が想像する聴覚障害は 部分的な不便で、捉え方も表面的です。
これは仕方がないことでもあります。
なぜなら、難聴者の聴いている音の状態は 健康な耳の人には作り出すことができないからです。

また機能面だけでなく “永遠に続く”ことの苦しみも健康な人には分からない苦しみです。単発なら乗り越えられるけど、永遠に続くとなると”心”のダメージがものすごく大きいです。
これは想像できそうなのですが、実際に直面してみると想像を遥かに超えてキツイです。

聴覚障害の最大の苦しみは、コミュニケーションの遮断です。
身体は自由に動くし、思考もしっかりしているけど、スムーズなコミュニケーションを奪われているので、人の輪や社会からはじき出されやすいです。

配慮があれば参加できるのに、配慮がないから完全に締め出される。そういう場面は今も少なくありません。
聴覚障害は見た目では分かりません。
難聴者同士でも相手は聴こえているように見えてしまうほどなので、これが理解の進まない要因の1つかもしれません。
なので 難聴者の内面は伝えないと分からないので、愚痴でも何でも知ってもらうためには伝え続けたいと思っています。

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■歩きながら話をしたい

毎日のように人は歩いています。
歩きながら会話をすることも多いです。

難聴者も歩きながら話をしますが、同時に危険を伴います。
健康な耳の人でも話に夢中になり過ぎて周りが見えなくなっている人がいますが、難聴者の場合は話に夢中にならなくても、話を聞く行為自体が相手に集中せざるを得ないので同じように周りが見えなくなります。

なので、例えば難聴者同士で話をしながら歩くと、みるみる歩くスピードが落ちて そのうち立ち止まってしまうことも多いです。
健聴者と歩いている時は、健聴者の歩調に合わせている分、周りへの注意力が追いつかなくて、よく危ないと引っ張られます。
健聴ならば普通にできる歩きながらの会話が、難聴になるととても難しくなります
音声だけでは聞き取れないので、横で話している人の顔を凝視し、頭は解読に集中せねばならないからです。
これは 視覚が奪われる上に 脳内も大忙しで、自分でも周りが見えなくなるのを感じます。

この歩きながらの会話は、会話の相手が健聴者の時は 自分が話している間は前方を見ることができます。だけど相手の話を聞く時は周りを見る余裕はありません。
さらにこれが難聴者同士になると、話を聞く時だけでなく、自分が話す時も相手に口の動きが見えるように配慮するので、ほとんど前方を見ずに歩くことになります
もちろんチラ見はしますが、普通の20~30%程度しか周りに注意を向けられません。
そして、前方のチラ見に精一杯なので、後ろに注意を向ける余裕はゼロです。

健聴者でも話に夢中になって危険を察知できなかったというケースはありますが、難聴者はそもそも音情報が入らないため、それよりもはるかに危険な状態となります。

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■ながら歩き

何かをしながら 同時に別のことをすることを「ながら」と表現しますが、最近 どこを歩いてもよく見かけるのが「歩きながらのスマホ」。
これは危ないから止めましょうと言われている行為の1つですが、私は「ながらスマホ」は最初からする気にはなれませんでした。
なぜなら 視線をスマホの小さな画面に落とすと周りの情報が完全に遮断されてしまうからです。
たとえば 音が聴こえる人は、後ろから靴音が近付いてきたとか、車のエンジン音が近付いて来たとか、「危ない!」の叫び声に反応したりできますが、難聴の私は音情報に頼れません。
車が近付いても音が聴こえなかったり、音が聴こえても音源の距離感や方角はさっぱり分かりません。さらに私の耳は 音の質感がめちゃくちゃなので何の音かも分からないことが多いため常に視覚で周りの状況を確認していないと恐いのです。

余談ですが、この「ながらスマホ」は人によって得意不得意があるようです。
私は通勤の時に繁華街を通過するので、毎日大勢の後姿を見ています。
スマホを見ているかどうかは不思議に後姿に出るようです。
前を見て歩いている人の動きは何となく読めるのですが、スマホに意識が向いている人の動きは予測不能です。
微妙に揺れ動いているというか、足先の動きに意志が感じられないというか、うまく表現できませんが、突然予測不能な動きをするため、スマホをしている人の真後ろは歩きにくいです。
たまに「ながらスマホ」をしているのに足取りがしっかりしている人もいますが、そんな人は1割か2割ぐらいしかいません。

最近は、電車で移動中にドラマを見ている人を見かけることも増えました。
さすがにドラマや映画の視聴は 電車を降りる時に中断する人が大半ですが、たまに直ぐには止めずに 画面を見ながら電車を降りる人もいます。その場合、たいていの人は動きがかなりスローです。
ドラマなどの動画は 音楽のように聞き流せるものではないので、意識はスマホに集中せざるを得ないため動画を見ながら歩く人は少ないですが、たまに動画を見ながら歩いている人を見かけると、明らかに周りが見えていなくて めちゃくちゃ周りに迷惑をかけています。
もしかすると、聴覚障害者の「歩きながらの会話」もこんな状態かもしれません。

一般に健康な耳の人の場合は 歩きながら話すことに「ながら」という意識はないと思います。意識することなく 自然にできてしまう行為なので。
だけど 難聴者にとっては会話もしっかり「ながら歩き」で、しかも難易度が高いです。

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■難聴者は「ながら」が苦手

何かをしながら、同時に何かをする「ながら」行為。
「ながら」行為には 耳を使うことが多いので、聴覚障害者は基本的に「ながら」が苦手です。
難聴が酷くなれば「音楽(BGM)を聴きながら」という簡単なことさえできなくなります。

特に会話はいろいろ不便です。
料理しながら会話する。
パソコン操作しながら会話する。
離れたところから会話する。
健康な耳の人が普段意識せずにやっていることが、難聴になると出来なくなります

ちなみに 歩きながらの会話が厳しくなってからは、私は人と別行動を取るようになりました。
一緒だと話しかけられるし、話しかけられたら相手に集中せざるを得ないし、聞き取れないストレスに加えて 危険まで伴うとなれば、そこまでして行動をともにするのもなあという感じです。

今の私はこの状態にだいぶ慣れてきたけれど、完全に慣れたわけではありません。
今も定期的に味わう苦手な場面があります。
それは 社外で会社の会議をしたり、全社員強制参加の忘年会などの後に、一斉に帰路につく時です。
あちこちで話しながら帰る同僚の姿があります。
そのそばを1人で取り過ぎる時、耐え難いほどの寂しさを覚えます。
会話を拒絶されているわけではなく、自ら避けているのですが、好きで避けているわけではないので、聴こえていればなあとやっぱり思ってしまいます。

周りにはどう見えているか分かりませんが、私は強がりなので 普段は平気な顔をしています。
集団での行動を避けるので、周りの人はきっと私のことを1人で行動するのが好きなタイプだと思っているかもしれませんが、実は人と一緒に行動したい寂しがり屋なので、心の中は孤独に押しつぶされそうになっています。

聴こえなくても、気にせず人の輪に入っていく難聴の友人を見ると羨ましくなります。
この辺りは性格なのでしょうが、それでも聴こえなくて全然平気という人はいないだろうと思います。

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■難聴になると会話に飢える

最初の頃の記事も含めて4回に分けて会話ができない欲求不満的なことを書きました。

会話ができないストレスはいっぱいあります。
*宴会での会話
*車中での会話
*自転車に乗りながらの会話
*寝ながらの会話
*星空を見ながらの会話
*歩きながらの会話
これらの他にも まだまだあります。

元々、飲み会が好きだった私は、多少でも会話が可能なうちは 聞き取りにくくても酔いで誤魔化しながら参加していました。だけど 酔いで誤魔化せないレベルまで低下すると楽しかったはずの飲み会が一転地獄に変わってしまいました。
そして普段の会話も、聞き取れなくなると 必要なことしか人と話さなくなりました。
人と話をする量が極度に減ると やっぱり寂しくて、会話に飢えを感じるようになりました
「誰かと普通に会話したい」という思いは日増し強くなっていきました。

一般に人間関係は会話からスタートし、会社も学校も旅先でも、その時の関係を育てるのは会話です。
難聴で聴こえなくなると、楽しい出会いが皆無になるわけではないけれど、見知らぬ人と短い時間の交流を楽しむというのはほぼ無くなります。
人間関係を築くきっかけや交流を深める可能性は、健聴だった時に比べると10%にも満たなくて、聴覚の大切さを思い知らされます。

私が会話に飢えを感じ始めたのは聴覚障害の認定基準に達する前で、認定基準に達した頃には 寂しさに耐えられなくなっていました。
「いったい他の難聴者はどうしているのだろう?」と思った私は難聴者を探し始めました。
その行動がきっかけで難聴者との交流が始まりました。
はじめての集まりに参加させてもらった時、聞き取れないことを許し合える関係(お互いさま)という安心感で 久々にのびのびしたのを今も覚えています。

大人になってからは友達が作りにくいというけれど、難聴という共通点で繋がった友達は利害とは関係ないので学生ノリで付き合える友人もできて、難聴も悪いばかりではないなと思いました。
また、難聴により人間関係は狭まったものの、逆に難聴にならなければ出会えなかった異業種の人たちと知り合ったり、難聴にならなければ考えることのなかったことを考え学んだりしていると、こういう人生も有りかなと 今は思っています。

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■自分の体に感謝しよう

今回のテーマは『歩きながらの会話』でしたが、いつの間にか話は脱線していますね。
脱線ついでに、今の自分が思っていることを最後に書きます。

人間の体には、ずっと働き続ける部位と、休息する部位があります。
「耳」は 働き続ける部位だと思います。
眠る時、私たちは目を閉じます。
だけど耳には蓋がないので、寝ていても音は勝手に入ってきます
これは危険から身を守るためには必要なことで、今もそれは同じです。
なので、健康な人の「耳」は24時間勝手に働いています
24時間働いているということはそれだけ役割が多いということです。
すなわち 難聴になると24時間不便が付きまとうことになりますそれだけ難聴であることを意識させられるといういうことです。
24時間 毎日がナンチョーで、これからもナンチョーな毎日を感じながら生きて行くことになります。

中途難聴の私は、ある日突然、健聴から難聴になりました。

健康な状態から、ある日突然不便な体になる
それを味わってしまうと、今日の当たり前が明日の当たり前とは限らないということを思い知らされます。
私はそれを味わったことで 体に対する意識は変わりました。
自分の体は 精神とは別の物体(精神の乗り物)であり、体には体の運命があると。

正常に機能している体に、普段の私たちはわざわざ感謝することはありません。
それが当たり前だからです。
でもよく考えると、体は意志(命令)により動かされているわけで、命令通りに働いてくれる体に少しは感謝せねばならないと思います。すなわち大事にしなければいけないと思うのです。

そう思いながらも、私は体に甘えて、相変わらず酷使しています(苦笑)

自分の体に「こき使ってごめんなさい」「頑張ってくれてありがとう」と思いながら、3回に分けて語った「会話」の話を終わりたいと思います。

今回も最後まで読んでくださり、ありがとうございました。
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[前回のナンチョー日記]
   ↓
ナンチョーな私の気まぐれ日記(33)夜のお喋り

[次回のナンチョー日記]
  ↓
ナンチョーな私の気まぐれ日記(35)実はうるさい難聴生活「耳鳴り」

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