「人はどうせ死ぬのに、なぜ生まれて来るのだろう?」~悩み苦しんだ子供時代~

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ひとりごと

[ひとりごと2]

私は生きることに疲れが出ると、決まって幼少期を思い出す。
ちょっとそのことを語りたくなった。

私はごく一般的なサラリーマン家庭に生まれた。
親から愛情を注いでもらい 幸せいっぱいに育ったはずなのだが、なぜか思い出すのは楽しくないことばかりである。
幼児期の私は、妹ができる4歳までかなり甘やかされていたので、依存心が強く、とても我儘な子だった。妹ができてから一転、「お姉ちゃんでしょ!」と厳しく育てられたが、4歳までの過保護の影響はその後も尾を引いた。
私の記憶は3歳頃から断片的にあり、幼稚園時代の記憶は割と残っている。
幼稚園は3年保育で、幼稚園の時から小学校1年生まで登園・登校拒否が酷く、毎朝、お腹が痛いと言って泣いていた。
だけど、お腹は痛くなかった。
大人は、子供がシクシク泣くと「どこか痛いの?」「お腹が痛いの?」と聞いて心配するので、お腹が痛ければ幼稚園を休めると思って、毎日痛いと言って泣いた。
ウソをついていることにちょっぴり罪悪感はあったけど、死ぬほど幼稚園に行きたくなかったので、とにかく泣いた。小学校に行くようになってからも泣いた。
母親は、幼稚園や学校を休むことにはとても厳しく、熱があるか、お医者さんが病気だと診断しない限り、絶対に休ませてはくれなかった。
年少さんの時の担任の先生は、小柄で笑うと優しそうな先生だった。年少と言えば3~4歳児。親が優しい先生だと言えばそうなのだと思ってしまうが、エピソード記憶に出てくる先生の言動は、明らかにうんざりした冷たい態度ばかりで、実際は先生に少し怯えていたようだ。たぶん先生はメソメソ泣いてばかりの私に手を焼いてうんざりしていたのだろうと思う。

年少、年中、年長・・・3年間の幼稚園生活で、私は仲の良い友達がいた記憶がない。
たぶん1人も友達はできなかったのだと思う。
幼稚園以外では、家の近所の子ども達と遊んでいたので、当時の私は幼稚園に友達がいないことが困ったことだとは思っていなかったし、遊具で遊んでいれば、皆と遊ぶことになるので、友達がいないことへの自覚も薄かったと思う。だけど、仲良しさんがいないので、グループを組んで・・・という場面になると1人取り残されてしまうことが多く、年長さんの頃にはそういうのを寂しいと感じていた記憶が残っている。

年長さんの時の担任は、とても優しい先生で、問題児の私にとても親切だった。
当時の私はというと、自分が問題児だとは露ほども思っておらず、先生のお気に入りだと思っていた。
その先生には、もう1人 気にかけている子どもがいた。ちょっと乱暴で無口な男の子。悪い子ではないのだけど、体格が良くて 動きが乱暴なので 皆が怖がって寄り付かない子だった。私の目にはその子も先生のお気に入りに映っていたので、なぜ先生が乱暴者のその子がお気に入りなのか不思議だった。
だけど、今、振り返ると、私も その子と同じ友達を作れない問題児だったのである。
とはいえ、ほんとによくしてもらった。集団で帰るのが嫌で、お腹が痛いと言って、先生に家に送り届けてもらうことなんてしょっちゅう。
先生は腹痛がウソだと分かっているけれど、絶対にウソだと指摘せず、「トイレに行ってきなさい。先生は残りの仕事をしたら戻ってきます」と言ってくれるのだった。
先生に思いっきり甘えている自分と、ウソをついていることにチクリとする自分がいて、今、思えば先生はどういう気持ちで私に接してくれていたのだろうかと思う。

話は変わる。
私が通った幼稚園はカトリックだったので、イエスキリストをイエズスさまと言っていた。
そして、そのイエズスさまの長い物語の紙芝居を繰り返し見た記憶がある。
私にとって、その紙芝居の絵は、とても不気味で恐ろしかった。
トラウマのようにこびりついたのが、赤ちゃんを大量に殺した王様が苦しんで死んだという話と、その時の王様の絵。なんか不気味な印象だけが潜在意識に刷り込まれてしまったような不快感が、その後何年も何年も残った。
紙芝居は繰り返しやっていた。長い話が終わるたびに、また1回目に戻ってやっていた。年少さんの時に見たかどうかは覚えていないが、年中さんと年長さんで、最低2回は見ている。

この幼稚園時代に私は毎晩お祈りをするようになった。
いつ始めたことかは覚えていないが、母親から強制的に、夜寝る前にベッドでお祈りをさせられるようになった。
子供はお祈りの意味が分からなくても暗記は得意なので、「天にまします我らの父よ・・・」から「アーメン」まで毎日毎日、床に就くとお祈りをした。
最初は母がそばで一緒に声を出してお祈りをしていたが、お祈りを完璧に覚えてからは1人でお祈りをするようになった。
そして、ここから私の地獄が始まる。
お祈りの後に神様にお願いをするようになったのだ。神様へのお願いは自主的に始めたのか、母がきっかけを作ってしまったのかは覚えていない。
気が付けば、眠れないほどのお願いが続くことになってしまったのだ。
今思えば一種のノイローゼだったのかもしれないと思う。

何をお願いしていたかというと、「お母さんが死にませんように」「お父さんが死にませんように」「家が火事になりませんように」「お母さんが病気になりませんように」「泥棒さんに入られませんように」みたいな安全へのお願いで、おばあちゃんや、妹のお願いもしないとダメだとか、交通事故も困るとか、この手のお願いはキリがないのである。
そして全部言わないとまずいと思ってしまって、お願い事が終わらないのである。
思いつくことは増える一方で、それを毎日言うのだから、辛くて涙が流れた。
そして当時は楽しいことより、「飼っていたバッタを世話していない、死んだかも、どうしよう」みたいな心配事ばかり考えていた。
そして小学校の低学年の時に、死や不幸を恐れるがために、生きるのが辛くなって、「人はどうせ死ぬのに、なぜ生まれて来るの?」「生まれて来ても、どうせ死ぬのになぜ?」と考え始め、毎晩、この問いに追い詰められては苦しくなって泣いた。人生のスタートで、なぜか「死」というテーマと向き合うことになったのである。
鏡に映る自分の顔が醜く見えて死にたいと思ったのは小学2年生の時だった。
生きていて何にも良いことなどないと、子供ながらになぜか人生に絶望したのである。
といっても 死ぬのは怖い。死後の世界を知らないのだから、それは恐ろしく、当時の私は逃げ道が無いことに苦しんだ。

1年も経つと「死にたい」という絶望感は薄れ、2年後には死にたいとは思わなくなった。
だけど、夜になるとダメだった。昼間は取りあえず子供らしく、お日様の下で元気に遊びまわっていたけれど、就寝時間になると一気に精神状態は沈んだ。
1人ベッドに横になると、「人はどうせ死ぬのに、なぜ生まれて来るのか?」の疑問が浮かぶのだ。
この問いは、生きることが辛いから浮かぶ疑問なので、それを考え始めると死にたくなるほど心は追い詰められる。これでは生きて行けないので、その内 考えそうになったら 気を逸らすようになった。
不思議なことに、当時の生活は決して悲しくも苦しくもなかった。それにも関わらず、どうしても生きる喜びを感じることができなかったのだ。

中学生の時、海で1人ボケーッと打ち寄せる波を見ながら、次に生まれるなら自然に身を任せているだけの波がいいなあと考えていた。この時まで、来世に生まれるならプランクトンがいいと思っていた。何となく死んでも気づかないんじゃないかというのが理由である。実際のところはプランクトンに聞いてみないと分からないので、生き物ではない波が一番良さそうだと思ったのである。
そんなことを考えていて、自分はこのままでは、いつまでも苦しいだけだなと思った。
「皆のように目の前の楽しいことに集中して楽しんだ方がいいのではないか」と考え始めてもいたので、私は決意した。生きるのに邪魔な問いは「心の奥に封印してしまおう」と。
で、さっそく 封印してみると ちょっと楽になった。
こうして私はようやく素直に未来を見つめるようになり、やがて大人になった。

この封印した「人はどうせ死ぬのに、なぜ生まれて来るのか」の問いはその後どうなったかというと、問いは消えてなくなることはなく、「出してくれ」と扉をたたき続けた。いつかは向き合う必要があると覚悟はしていたが、その向き合う覚悟ができたのは30代の時だった。

どれだけ落ち込んでも考え抜く決心をした上で、思い切ってパンドラの箱を開けてみた。
覚悟した通り、私は落ち込んでいった。私は必死だった。開けてしまった箱はもう元には戻せない。答えを見つけて前に進むか、問いに潰されてしまうかしかないのだから、落ち込み切ってしまうまでに答えを探そうと必死だった。人生でここまで考え抜いたことはないと思えるほど、明けても暮れても答えを求めて情報を探した。この時は本屋へよく行った。不思議なことに、必死に答えを求めていると、アンテナに引っかかって、求める答えに近いことが書かれている本に次々と巡り合った。
導かれるままに 読み漁っていると、だんだん自分なりの答えが見えてきた。それでも貪欲に真実を追ったが、あるところを境に情報の質は落ちて行った。
この世で得られる真理に既に触れたということなのだろう。
これはどれだけ追い求めても、決して真実が明らかになることはない。どこかで終止符を打つ必要がある。
私は既に納得していたので、ここで模索の旅は終了することにした。

長い旅だった。
この時、ようやく私は幼少期から始まった苦しみから解放されたのかもしれない。
「人はどうせ死ぬのに、なぜ生まれて来るのか」の疑問を持って約30年・・・ほんとに長かった。
ちなみに、最終的に落ち着いた私の考えは、この世のカラクリ(空想物語)「私たちは自分で自分の人生・境遇を選んで生まれてきた」 で、物語風にして書いているので、興味のある方はそちらも読んでいただけると嬉しい。

最後に・・・
自分でも思うが、私はとても面倒くさい人間のようだ。
“生きる意味を見出せないと、生きることに集中できないのってどうなの?”と、自分でも思う。
それでも 取りあえず 生きる覚悟ができたので、それだけでも良かったと思う。
無駄な悩みのようでも、私には悩む必要があり、それを乗り越える必要があったのだろう。

あれから沢山の時が流れた。
今は生死に悩むことはないが、相変わらず 自分の行き先が見えなくて、悩んでばかりいる。
目の前の困難に逃げ出したくもなる。
自分を乗り越えるというのは、本当に難しいことだと痛感する。
でも、私は人生最期の時まで前進していたいので、とにかく楽しいことを探して、気持ちよく頑張れる人生に今からでも変えて行こうと思っている。

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