「記憶喪失になったぼくが見た世界」を読んで

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書籍・資料

読後感想 第8回
「記憶喪失になったぼくが見た世界」 坪倉優介 著

昔、読んでみたいなあと思ったまま忘れていた本に巡りあった。
交通事故で記憶喪失になった18歳の美大生の話である。
何となく著者の名前に憶えがあったので文庫本を買って読んでみた。
そうそう、この本、この本。

本は以下の文から始まる。
「目のまえにある物は、はじめて見る物ばかり。なにかが、ぼくをひっぱった。ひっぱられて、しばらくあるく。すると、おされてやわらかい物にすわらされる。ばたん、ばたんと音がする。
いろいろな物が見えるけれど、それがなんなのか、わからない。だからそのまま、やわらかい物の上にすわっていると、とつぜん動きだした。外に見える物は、どんどんすがたや形をかえていく。
上を見ると、細い線が三本ついてくる。すごい速さで進んでいるのに、ずっと同じようについてくる。線がなにかに当たって、はじけとぶように消えた。すると二本になった。しばらくすると四本になった」(引用)

いきなり衝撃だ。
この感覚、幼児期を思い出す。
考えてみれば、記憶を失うのだから、当たり前の生活そのものの記憶を忘れてしまうことはあり得る話。
ところがドラマの設定などでよく使われる記憶喪失は、「私は誰?」「ここはどこ?」「あなたは誰?」「何も思い出せない」と、過去のエピソード記憶の喪失のみで描かれることが多いので、生活するのに必要な常識なるもの全てが抜け落ちてしまうことがあるということを考えたことがなかった。

著者の坪倉さんは、言葉も忘れているし、文字も覚えていない。
食べ物さえも覚えていない。食べられる物、食べられない物、甘い味、辛い味、全てが一から覚え直し。記憶に関しては赤ちゃんのようだ。
だけど、坪倉さんの脳は、生まれたばかりの赤ちゃんの脳とは違う。
何も覚えていなくても、思考力まで失っているわけではない。自他の区別もつけば、行動に思考も伴う。また記憶の断片が呼び起こされることもある。

坪倉さんは、記憶を全く失ったまま、大学に復帰する。
文字を忘れているので、駅名は文字の形で判断するしかない。お金もはじめて見る状態だし、いくらという概念もなければ、使い方も知らない。まるで幼児の「はじめておつかい」状態である。
大学の講義に出席してもひらがなも読めなければ、ノートを取るということも知らない。

その状態で大学に再び通うことになったのには、お母さんの『絵を描くことが好きだった息子から絵まで奪いたくない』という強い思いがあり、大学側もその強い思いに“リハビリとしてなら”ということで、そのまま受け入れることになったという経緯がある。
再び大学に通うことが決まった事情を読んだ時、本人は絵のことも覚えていないのに、これは厳しいなあと私は思った。だけど、その後の坪倉さんが抵抗なく芸術の世界を受け入れている様子に、好きなことはまた好きになる可能性も高いし、出来ないからと甘やかさずにチャレンジさせた親の勇気ある選択は正解だったのだなと思う。

とはいえ、本人は大変だったと思う。
大変なのは単に学習の面だけではない。
人間関係も学ばねばならない。
友達との関係を通して、だんだん相手の顔色を見ることも覚える。

いっぱい傷つきもしただろう。
坪倉さんにとって日常は知らないことだらけのため、どうしても分からないことを友達にしつこく聞いてしまう。しつこく聞かれると聞かれた方は答えに困ることもあるし、普段親切な人でもいい加減にしてほしいという態度になることもあっただろう。人によってはあからさまに嫌な態度を取る人もいただろう。
落ち込むことも多かったに違いない。
引用:「知らないことを聞くと嫌がられ、何か言ったりすると笑われたり、怒られたりした。うち砕かれてバラバラになったガラスのような気持ちを、割れたガラスを組み合わせて作るステンドグラスの技法で、ひとつの形にしてみたかった。」

記憶が無いというのが、どこまで本人を追い詰めるのかは私には分からない。
何もかもすっかり忘れてしまえば、心も一から育て直さねばならないように思うが、心の成長に必要な体験をある程度経験した先には、やはり、今の自分を受け入れるという大きな課題が待っていて、そこを越えないと人生の再スタートが切れないのは記憶障害も他の障害と同じだなと思った。
下記の引用は、坪倉さんが自分のマイナスな面(自分自身が自分に同情していたこと)に気付く場面である。
引用:「・・・(略)・・・。どうして字が書けないのかと聞かれたら事故のことを話して、どうして上手に食べられないのかと聞かれたら記憶がないことを話して、授業を休むときも、手が動かせないから病院に行きますと言って休んでいたな。変な目で見られるのが嫌だ嫌だと言いながら、実は自分でそう見られるようにしむけていたのではないか。ぼくに同情していたのは、ぼく自身ではないのか。なんだか、自分がみじめだ。」

この時の気付きが、新しい人生を切り拓く大きな一歩になったと思う。
大学卒業後、坪倉さんは着物を制作している工房に就職し、今はご自分の工房を立ち上げておられる。

この本を読んで改めて思う。
失ったものは戻らない。
今ある自分がすべてなのだから、今の自分と向き合って進んでいくしかないのだと。

この本はノンフィクションだけれど、まるで童話を読んでいるかのような感じがする。
ここまで記憶を失うと、生活のすべてが新鮮で、世界の感じ方はとても純粋で、読んでいると幼少期の記憶がよみがえってどこか懐かしい。
だけど幼少期とは違う。
本のタイトルである「記憶喪失になったぼくが見た世界」そのものなのである。
貴重な体験資料だと思う。

余談だが、記憶障害にもいろいろある。
坪倉さんのような過去の記憶を失う記憶障害のほかに、新しいことが記憶できない「前向性健忘症」というのもある。
この本を読んで、記憶障害についてもきちんと調べてみたくなった。

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※「記憶喪失になったぼくが見た世界」は、2003年に幻冬舎文庫より刊行された「ほくらはみんな生きている」を改題したもの。

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