私は元々寝坊助で、朝は毎日地獄だった。
大学では一限目の科目は常に欠席による単位不足との闘い、社会に出ると毎日遅刻レベルで起きた瞬間 顔面蒼白の日々。
それほど朝が苦手だったので、駅までの道のりは毎日全力疾走だった。
(朝寝坊でせっかちな私だから感じている不便の話です)
■健聴だった時の私
私は20代半ばまで普通に聴こえていた。
その頃の私は、慌てて家を飛び出し、駅までの道中で 踏切の音が聴こえたら 猛ダッシュで走って駆け込み乗車するのが、朝の日課になっていた。
余裕をもって家を出ればいいのになぜ?と思った人がいるかもしれないが、極度に朝が弱かった私は、起きた時点で1分1秒を争う状態。通常必要な徒歩分数なんて確保できた試しがなく、常に不足した時間分を走って調整していたのである。
当時住んでいた家から駅までの距離は徒歩10分ほど。
これを走り続けるのはしんどいので、走ったり歩いたりしながら、最後は踏切の音を合図に猛ダッシュでカバーというのがお決まりのパターンになっていた。
駅までの道のりは、何度か道路を曲がるのだが、線路沿いの道に出るまでは、駅も踏切も見えない。
最後の曲がり角はT字路。そこを曲がると線路沿いなので踏切は見えるが距離が短い。
最後の曲がり角を曲がる手前の道は結構長い直線で、前方は線路で遮断されてのT字路だから、そこを通過する電車の姿は見える。だけど、駅まで距離があるので そこで電車の姿を目撃してから走り出したのでは間に合わない。そんなんで踏切音が頼りだったのである。
因みに「踏切」が見えるのは、線路沿いの道に出た最後の60mだけ。
猛ダッシュで間に合うかどうかは、踏切音がどこで聴こえるかで変わってくる。
昔は駅まで150~200mぐらい手前でも音が聴こえていた。
朝は乗り込む人数が多いので、聴こえてすぐに猛ダッシュをかけたなら、何とか間に合った。
(足が速くて体力もあった若い頃だから出来たことで、今はさすがに無理だけど)
■難聴を発症して
私は20代半ばで難聴を発症した。
発症当時は大音量の耳鳴りが苦痛なだけで、低音や中音は普通に聴こえていたため 自分が難聴だという自覚はあまりなかった。
私の難聴は進行性難聴なのだが、最初に大きなダメージを受けたのは高音。
会話では不自由をあまり感じなかったけど、高音はみるみる小さくなっていった。
そのため、踏切の音は早い段階で影響が出始めた。
毎朝、踏切音を合図に猛ダッシュしていた私は、踏切音をキャッチできる場所が日に日に変わっていったのである。
発症前なら聴こえていた場所に差し掛かっても、鳴っている踏切音が聴こえなくて、前方で走り始めた人の姿を見て、半信半疑に走るようになった。
最初はなぜ聴こえないのだろうと戸惑った。
自分の耳のせいだと自覚するまで数日かかった。
だんだん自分が踏切音に気付ける場所が駅へと近付いて行き、100m未満の位置になる頃には前方の線路を通過する電車を見て慌てて走り出すも、間に合わない事が増えた。
やがて私は、音に頼らず、腕時計だけを頼りにするようになった。
■もっと聴こえなくなって
今の私は補聴器が無ければ ほとんど聴こえないほど聴力は低下している。
踏切の音はすごく大きいのに、補聴器をしても、あまり大きくはならない。
私の場合、高音に失聴してしまった音が多いせいもある。
実際、カンカンの音の内、高音で響いていた音は近くに寄っても聴こえない。それより低めの音だけが聴こえるので健聴時に聴いていた踏切音とはちょっと違う。
私に関わらずだが、補聴器の性質上音源から離れると音の増幅効果は期待できない。
すなわち離れてしまえば音は届かないのである。
難聴で苦労し始めてからのその後は、徐々に生活を改善して、朝の駆け込み乗車は減った。
だけど、それ以外では相変わらず聴こえなくて悔しい思いが続いた。
今は内勤にしてもらっているが、それまでは仕事でいろいろな場所に出向き、いろんな鉄道や駅を利用した。
出先から会社に戻る時は、電車の時刻はあまり気にしないので、駅についてから時刻表を見ることが多かった。
本数の少ない駅の場合、目の前で電車に行かれてしまうとすごく待たされる。
待ち時間は1秒でも短くしたい私は、目の前で電車に置いていかれると、物凄く気分が沈む。なので、駆け込める電車には駆け込みたいのだが、電車の到着に気付かず、何度も目の前で電車を見送る羽目になっている。
もちろん、聴こえなくても踏切が見える所では、踏切が鳴り始めた事をランプの点滅や遮断器が降りることで気付くことはできる。
だけど見えないと駅のすぐそばに居ても気付かない。
のんびり歩いて駅に着いたら、電車がホームに到着したところだったりすると、数十秒早く気付けば間に合ったのに・・・と、とても悔しい思いをする。
次の電車が30分後とかだったら、涙が出そうな気分になる。
普段 地下鉄を利用する私は、今も地下鉄でしょっちゅう悔しい思いをしている。
昔なら電車が入って来ることを知らせる音や、電車の走行音に反応して、慌てて階段を降りて行くことができたが、今はホームに降りるまで電車の状態が分からない。
周りの人が走るので走ってみたら反対側の電車だったり、周りが走らないのでのんびり降りたら、電車来てましたということもしょっちゅう。
電車に気付いてから慌てて走るも目の前でバンと扉が閉められて置いていかれる時の気まずさとガッカリ感は何度味わっても慣れない。
ガッカリしたくない私は、今はできるだけ時刻表を確認してから駅に向かうのだが、朝夕のダイヤの乱れはよくあるので、やっぱり悔しい思いをする。
このせっかちな性格が変われば解決するのだろうが、悔しいと感じてしまう心は簡単には変えられなくて、やっぱり電車に目の前で行かれてしまうと悔しい。
ちなみに聴こえていた時も置いて行かれてガッカリすることはあった。
だけど、聴こえていた時は間に合うか間に合わないかの判断は音でしていて、駆け込みは一種のチャレンジだった。
聴こえない人は視覚でしか確認できないので、注意を払っていても気付くのが遅れる。
それだけ置いて行かれる頻度は増えるわけで、聴こえていれば間に合っていたのに・・・と体験上分かるケースも多いだけに悔しさが大きいのかもしれない。
最後に聴こえる方に、老婆心的に一言。
音に反応して行動できることは当たり前過ぎて普段意識することはないと思いますが、それマジで 有りがた~い機能です。
騒音難聴が増えているようなので、耳を酷使している人は、定期的に耳に休息を与えて大事に使ってください。
今回も最後まで読んでくださりありがとうございました。
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