ナンチョーな私の気まぐれ日記(41)ドラマ『デフ・ヴォイス 法廷の手話通訳士』を聴覚障害者の私が観た感想③残念過ぎる一言

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ナンチョーな私の気まぐれ日記

ドラマの感想は今回が最後となります。
※感想1回目 ➡ ①聴覚障害の情報が省かれていたのは残念
※感想2回目 ➡ ②音無しで観るドラマと音有りで観るドラマの違い

最後の感想は、残念過ぎると思ったことを書きます。

ちなみに私は原作の小説のファンです。
障害をテーマにした物語は、とかく健常者目線で同情を誘うような描き方になることが多いのですが、この小説は聾者と聴者の狭間で生きるコーダを主人公にすることで、障害者に寄り過ぎることなく、また健常者目線で障害者を見ることもなく、フラットな目線で描かれているのが魅力です。

そしてこの小説のもう1つの良いところは、聴覚障害の世界を知らない人にも理解できるように丁寧に説明しながらストーリーを展開しているところです。
押し付けがましくなく、知らない世界をのぞかせてもらっているような面白さがあります。

ドラマにするにはやや地味なので、どのように仕上げてくるのかは 出来てのお楽しみでしたが、ドラマでは聴覚障害の情報は潔いほどカットしていました。だけど、聾者役を聾者がやることで、それなりに説得力のあるものに仕上がっていました
賛否両論あるかもしれないけれど、私の中では評価の高いドラマです。

但し、評価が高かっただけに、残念で仕方のない部分があります
辛口コメントになるけれど、ドラマはこれからも再放送があるかもしれないので、原作のファンとしては ここだけは原作とは大きく違うので「差し引いて観てね」と言いたくて、敢えて書かせていただくことにしました。

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■「俺はただ聴こえているだけなんだぞ!」の台詞

この小説は、聴者だけど 聾者でもあるコーダ(主人公)の目線が非常に大きな役割を果たしています。
「コーダ(CODA)」とは聾の親を持つ聴こえる人のことです)

ドラマでは少女が手話で「あなたは私たちの味方?それとも敵?どっち?」と訊いてくる場面が何度も出てきますが、主人公はまさに両者の狭間にいるどっちつかずの存在です。

先に書いた通り、聾者と聴者の狭間で苦しむコーダを主人公にすることで、聴者にも聾者にも寄り過ぎない絶妙なバランスで聾者の世界を描けているのが原作の魅力で、ドラマもその世界観は大切にしていると感じながら観ていました。
ところが、最後の最後でぶち壊してしまいました

ドラマの最後は施設に入っている母親に会いに行った家族のシーンでした。
この場面は小説にはなく、完全にドラマのオリジナルシーンです。
兄と取っ組み合いの喧嘩になって、主人公が怒りを爆発させる場面があるのですが、そこで(聾の兄に向かって)吐かせた台詞が 何回観ても 違和感あり過ぎて 残念で仕方ありません。

その台詞とは「兄ちゃん、俺はただ聴こえているだけなんだぞ!」です。
気持ちは分かるし、心の中で叫ぶのは有りなのですが、「コーダが聾者にそれ言うかな?」と、それまでの好感が一気に下がりました。

ちなみにドラマでは主人公の兄の態度が乱暴気味に描かれていましたが、小説ではあんなに乱暴で理不尽な人物ではありません。
ドラマの途中では、父親が亡くなった時の回想シーンとして「父さんが死んだのはおまえのせいだ」と主人公を責める兄の姿もありました。
兄を理不尽に描かないと、感情を爆発させられないから、ああいう設定にしたのだろうと思いますが、吐かせた台詞がまず過ぎます

もちろん、この台詞を聾者に向かって言うコーダもいるかもしれません。
だけど、少なくともこの小説(ドラマ)の主人公は言わないし、言わせてはいけなかったと思います。

私は元々が健聴なので、聴こえる人のことはよく知っています。
聴こえる人にどれだけの負担をかけることになるのかも容易に想像がつく私でさえ、この台詞を見た瞬間に感じたのは「聴こえているんじゃん」という複雑な感情です。
反感とは違うのですが、“それ聴こえない人に言うか?”という 悲しいような 戸惑いのような複雑な感情です。

聴こえる側から見ると「聴こえているだけ」というのは、確かにその通りです。
聴こえることと、頭で理解したり行動したりすることは別です。
健聴者が常にすべての音声を聞き取っているわけではないし、すべてのことを理解しているわけではありません。
聞いたことのない専門用語が並べばちんぷんかんぷんですし、ましてや異なる言語の通訳は頭を使います。言葉を理解していなければ、そもそも通訳は不可能です。
兄との違いは、単に耳が聴こえるか否か
それ以外は何の違いも無いはずなのに、子どもの頃から家族の通訳は当たり前、ドラマでは父親の死まで責められています。
なので、ドラマの主人公の気持ちは分かりますが、聾者のことをよく知っているあの主人公が聾者に向かって「聴こえているだけなんだぞ」という台詞はやっぱり言わないと思うのです。

可哀想だから言わないのではありません
言ったところで伝わらないことをよく知っているから言わないと思うのです。

小説の中でも主人公の不満な気持ちは描かれていました。
父親の法事の後、レストランで兄家族が聴こえる弟(主人公)に通訳を頼る場面は小説にもあります。
お兄さんの態度はあそこまで横柄ではなかったけれど、店員とのやり取りを当然のように主人公に頼ります。その兄家族に対して、主人公は思います。

(小説の引用)→ “兄たち家族とて、この手のレストランに来るのが初めてということはないだろう。その際にも、今のように意思の疎通に不自由を感じる場面はあっただろうが、自分たちで何とか切り抜けたはずだ。だが、自分がいると――聴こえる聾者である荒井がいると、何のためらいもなく彼らは自分に頼る。通訳をさせ、交渉事を任す。親とてそうだった” と、子どもの頃の回想シーンがここに入ります。

(小説の引用)→ “荒井は、幼いころから嫌というほど「家族と世間」との間の通訳をしてきたのだった。買い物や遊びに行った先で。学校の親子面談では教師と親の間に入って。銀行や役所に連れて行かれたこともたびたびあった。だが、一番つらかったのは、と思い出す。母と一緒に病院へ、父の検査の結果を聞きに行った時だった。最初は筆談でそれを母に伝えようとしていた医師だったが、走り書きの悪筆を母がなかなか読めず、結局荒井が医師の言葉を母に伝えることになったのだ。荒井ははっきりと覚えている。医師が困ったように、だが、仕方がない、という顔で口にした言葉を。お父さんは、末期の肺ガンです。もって半年。おそらく今年いっぱいもたないと思います。荒井は、それを母に伝えた。母は、信じられないという顔で、医師にもう一度確かめるようにと言った。そしてそれが本当のことだと悟ると、顔を覆ってその場で泣き出した。荒井は泣けなかった。しっかりしなければ。自分がしっかりしなければ、とそれだけを思っていた。彼はまだその時、十一歳。今の司とほとんど同じ年だったのだ――”

非常に重いです。
小説から伝わって来るのは「俺はただ聴こえているだけなんだぞ」という軽い一言では言い表すことのできないコーダの背負わされているものの重さです。

ドラマでは医師の戸惑いは描いていなかったので、単純にもっと周りの大人がフォローすべきと思った人もいるかもしれません。
だけど、コーダが背負うのは通訳だけの問題ではありません。
コーダは聴こえないために困る親の姿を見ながら育つのです。それをどのように感じ、どのように受け取るのか・・・これは当事者にしか分かりません。

また、家族の中で自分1人だけ聴こえるコーダが感じる疎外感。
これも当事者にしか分かりません。
この疎外感は決して仲間外れというのではありません。身体機能の違いから生じるどうしようもないズレだからコーダは感情の行き場をなくすのだと思います。

聴こえる人は、聴こえない人の感覚や感情を知りません
聴こえない人は、逆に聴こえる人の感覚や感情が分かりません
この埋めることのできない壁が、コーダを苦しめることになるのだと私は想像します。

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■聴こえなくなると健聴者が超能力者に見えてくる

この「聴こえているだけなんだぞ」の台詞に私が引っかかったのは、小説を読んでいるからでもありますが、今の私が聴こえない人だからというのもあります。

健聴だった時に当たり前だった世界も、難聴になると変化します。
今まで出来ていたことが出来なくなり、最初は嘆き、やがて出来ない事が当たり前になっていくのです。

私には聴こえていた時の記憶があり、今も忘れていません
それなのに、いつの間にか感覚は聴こえない人になっている自分に気付いて唖然とすることがあります。
今の私が無意識に感じる当たり前は、聴こえない状態の方にあるようです。
これが慣れるということなのだと思います。

慣れるとは、自分の当たり前の基準が変わったということなのでしょう。
誰でも自分の体が基準ですが、今の私は聴こえた頃の記憶を残しているだけで、体は今の聴こえない状態が感じ方の自然な基準になっているようです。

具体的な例を挙げると、離れた場所で話をしたり、相手の顔を見ずに話をする。
パーテーションの向こう側にいる人と話す。
ざわついたパーティー会場で人と話をする。
健聴だった頃に当たり前のように私もしていた行為です。
これが、聴こえなくなると、まるで超能力者のように見えたりすることがあります。

少し離れた席で、それぞれが別の方向を見て作業をしながら話をしていると、私は皆が会話をしていることに気付けません。
誰かの口が動いていることに気付いて、初めて誰かと会話しているらしいと気付くのですが、これはテレパシーを使って意思疎通している場面に遭遇したような不思議な気持ちになります。
頭では分かっています。昔の自分はそれと同じことをしていたのですから。
だけど、それを知っていても 健聴者には特殊能力があるように見えてしまいます

過去に聴こえた経験をたっぷり味わっている私でもそんな不思議な気持ちになるほどなので、聴こえた経験のない人にとって、聴者はもっと万能な存在に見えているのかもしれません。
というより、聴こえる状態自体が全く想像できないという方が正しいのかな。

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■体験したことのないことは分からない

人は体験したことのないことを真に理解することはできません
聴こえないだけで低能扱いされたり、聴こえないだけで輪からはじき出される。
その苦労、屈辱、寂しさ、悲しさは、味わった者にしか分かりません。
聴こえないと分かった途端に態度が変わる人もいて、当事者になって初めて知る“人の冷たさ”というのも経験しないと分からないものです。

もちろん、体験がなくても想像することはできます
だけどそれは健聴者の範囲の想像で、想像には限界があります。
同じように、健聴者の苦労を聾者が分かることもありません
体験がないことを想像するのはお互いに難しいのです。

ただ、分からないながらに引き算で想像することはできます
「聴こえなかったらどうだろう?」と想像し、その時に想像が足らなかったとしても、何度も繰り返し考える内に少しずつ理解に近付くことは可能です。
だけど、その逆は極めて難しいと思います。
聴こえた経験のない人が、聴こえる世界を想像するのは、どこまで行っても空想の域を抜けません。想像するために必要な音を知らないのですから。

生まれつき聴こえない人にとって、聴こえる人がどう見えるのか?
これははっきり言って分かりません。
分からないけれど、どれだけ説明しても理解しあえないラインがありそうなことは 聾者と会話した経験から何となく感じます。

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■コーダ(CODA)

聾者の感覚が分からないのと同じように、私はコーダの気持ちも分かりません。
生まれた時から聾者と暮らし、外に出れば聴者として生きる。
聾者と聴者には感覚のズレは間違いなくあり、聾者に説明してもどうしても理解してもらえない “聴者の感覚” みたいなものが、互いの理解の溝になるのは不思議なことではなく、それが親子間で発生するのは酷なことです。

私はコーダのことが分からないのと同様に、聾者のことも分かりません。
聴こえないというのは、生活が不便なだけでなく、仲間外れにもなりやすいし、無視もされやすいです。
聴者として育った私には、聴こえないことの物理的な不自由は分かるけれど、生まれた時から音を知らない人が言葉を獲得する苦労や 聴者社会の常識を身につける苦労は到底想像がつきません。

ただ、ひとつだけハッキリしていることがあります。
聾者の立場を一番よく知っている聴者は『コーダ』だということです。
聾者に対する社会や世間の冷たさは身内に聾者がいると嫌でも感じます
一緒に差別された経験を持つ人も少なくないと思います。

聾者とは聴こえない人であり、聴こえないから社会からはじき出されます。
聴こえなくて途方に暮れる親を見れば、子どもながらに自分が通訳しなければ・・・と思うのも自然なことでしょう。「いやだー!」と言ったところで 親は聴こえるようにはならないのですから。
聾者の苦悩も、コーダの苦悩も、すべては “聴こえないから”にあるのです。

ここまで説明すれば分かると思いますが、コーダは聾者の苦労を知り、そして聴者の自分との間に越えられない何かがあることを知っていると思うのです。
そう思うので「聴こえているだけなんだぞ」はやっぱり不適切な台詞だったと私は思います。

ただ、製作者の気持ちも分からないでもありません。
このドラマは普段注目されることのないコーダが主人公だったため、当事者(コーダ)がコーダの描き方に期待する声をあげていましたから、その声への期待に応えようとしてしまったのが、最後の場面なのかもしれません。
果たして、あの台詞で、当事者であるコーダが満足したのかは私には分かりません。

私は思います。
どうしても最後に感情を爆発させたいと思ったのだったら、せめて「甘えるな!」とか「何でもかんでも頼るな!」とか、別の表現の方がまだ受け入れられたかなと。

このドラマの主人公は、単なる手話通訳士ではなく、聾者のことをよく知り、聾者の立場やうまく表現できない心の声を感じ取りながら通訳できる手話通訳士です。
その人が「聴こえているだけなんだぞ」と聾者に言い放ってしまっては 役が台無しです。

個人的には続編のドラマ化も期待しているので、これだけは強く要望します。
主人公の人物像が変わるような演出だけはしないでほしいということです。
コーダにもいろいろな人がいるし、性格もバラバラです。
主人公=コーダなのではなく、主人公=荒井尚人です。
聾者の世界を公平な目線で見つめるのに重要な役割を果たしているのが荒井尚人だということは忘れないでほしいと思います。

最後に。
このドラマは、聾の役者さんが良い味を出していたのが印象深く心に残っています。
聾の役者さんが活躍する場が今後増えることを期待しています。

3回に分けて書いた感想はこれで終わりです。
今回も最後まで読んでくださり、ありがとうございました。
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[前回のナンチョー日記]
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