ナンチョーな私の気まぐれ日記(31)『デフ・ヴォイス 法廷の手話通訳士』を久々に読んで

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ナンチョーな私の気まぐれ日記

小説『デフ・ヴォイス 法廷の手話通訳士』のドラマが この冬 放送されることになりました。
聴覚障害者を扱ったミステリー小説です。
私がこの小説と出会ったのは5年ほど前。
その頃の私は「聾(ろう)」に関しては無知で、聴覚障害者が「聾」の定義で揉めているのを見て「何で揉めるのだろう?」と不思議に思っていた時期だったので、この小説にはミステリーの面白さよりも、知らない世界(聾の世界)を知ることの方に面白さを感じました。

最近読んでみると、いつの間にか私の中に自然に聾のイメージができていて、今回は前回よりもストーリーの方を楽しみながら読んでいました。

聴覚障害の世界は、障害者でも複雑で分からないことが多いです。
健聴ならなおさら分からないことだらけだと思いますが、小説ではその複雑な事情を分かりやすく丁寧に説明しています。
ここを理解しないと話の深みが伝わらないので、ドラマではどのように表現するのか楽しみです。

個人的には、ドラマを見る前に小説を読むことをおすすめしたい感じです。
先に小説を読むとミステリーとしてはネタバレになってしまうけれど、この小説は社会的な背景を理解してこそ楽しめると思うので、先に小説を読むのは有りだと思います。

今回、読み返してみて、やっぱりいろいろ考えさせられました。
感じ方が変われば 考え方も変わっているかなと思ったのですが、考え方は最初に読んだ時とあまり変わっていませんでした。
ただ この5年ほどで、前回あまり考えていなかったことを考えている自分に気がついたので、今回はそれに触れようと思います。

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■はじめてこの小説を読んだ時

この本を読んで今も昔も変わらないのは、やっぱり聴覚障害についての感想です。
この本との出会いは、ちょうど「聾(ろう)とは何だろう」と考えていた時なので、当時、辞書などでいろいろ調べたことは今も覚えています。
一般的な定義(意味)は 今も「聾者=失聴者」ですが、いろいろ知るとそんな単純なものではありません。

この辺りの話や聾者同士の揉め事の話は、前回の読書感想の中で書いたので、そちらを読んで欲しいと思います。
はじめて読んだ時の感想はこちらです。
今回読んだ後に下書きした記事もよく似たことを書いていました。
 ↓
「デフ・ヴォイス 法廷の手話通訳士」を読んで思ったこと

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■今だから思うこと

私は 障害歴は浅いけれど、難聴歴はとても長いです。
だけど、難聴者との繋がりが自然に生まれることはありませんでした。
現役世代の中にも難聴で困っている人はいるはずですが、出会うことはなかったのです。
今思えば、他人は私が難聴であることを言わなければ気付きませんでした。それと同じで相手が「難聴です」と言わなければ私も相手が難聴だとは気付かなかったと思います。
だから知らない内に出会っていたかもしれないと、今になって思うことがあります。

聞き返しが増えても人と会話ができていた時は 特に他の難聴者を意識したことはなかったのですが、音声会話がほぼ不能になった時、あまりの寂しさに 他の難聴者はどうしているのか気になるようになって、難聴者と繋がるべく行動を起こしました。
いざ行動を起こしてみて困ったのが、どこに行けば難聴者に会えるのか分からないことでした。
ネットで検索してもそういう情報はなかなか出てきません。
協会などの団体のサイトを見つけても、関係者以外に扉を開いているとは思えない感じで問い合わせには二の足を踏んでしまいました。

たぶん当時の私のように 同じ難聴者と繋がりたいと思いながら 繋がる扉を見つけ出せずに孤独に生きている中途難聴者は多いと思います。
多くの難聴者は団体に加入するとかそういう大袈裟なのではなく、気軽に接する友達がほしいレベルのはずですが、そこの扉探しはほんとに大変でした。

私は偶然にそういうレベルの集まりを見つけたから繋がれたけど、これはほんとに運が良かったと思います。

一旦、誰かと繋がると、人の輪が広がるし、様々な情報がいきなりたくさん入ってきて驚きました。
聴覚障害者同士ではそういう情報のやり取りは気軽にやっているのです。

いろんな活動があることも繋がってはじめて知りました。
繋がっていない難聴者はイベントがあってもその存在を知る術がないし、見つけてもいきなり参加するには敷居の高さを感じると思います。

私は難聴者向けの手話講座があることも、難聴者との交流で知りました。
役所の福祉課ではそれは把握していなかったので、自ら繋がらなければ、手話をはじめるきっかけも掴めないままだったかもしれません。

そして、一旦 中に入ってしまうと、外から見て閉鎖的な状態になっていることが分からなくなっていくことを実感しました。
啓蒙活動を一所懸命している人達もいますが、健聴者に知ってもらう活動のはずが健聴者には声が届かず 身内だけの自己満足で終わってしまっているケースも多々あります。
勿体ないなあと思います。

自治体への働きかけで結果を出している団体もあります。
その中には新たに有りがたいサポートが追加されたなど、知っていれば助かることもあるのですが、孤立している聴覚障害者は蚊帳の外のことが多いので、仲間に繋がれない障害者への情報配慮はほしいなあと常々思っています。

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■ドラマや映画などで扱われると嬉しい

そんなこんなで いろいろな活動はあるのですが、一般向けの啓蒙活動の場合、小難しい内容だと、興味を示すのは同じ悩みを持つ人ばかりです。

自治体を動かすことも重要ですが、同時に一般の人の理解が深まるのはもっと重要な課題です。
ところが これが一番ハードルが高いと感じます。
声を上げねば変わらないので声を上げた場合、当事者の直接の声は 内容が伝わる前に偏見でかき消されてしまうことも多いです。
「助けて」と当事者が訴えても甘えるなと見捨てる人が、第三者の「助けてあげようよ」という声には耳を傾けたり、渋々でも動いたりします。
第三者の力は大きいのです。
その第三者に協力してもらうためには、多くの人に実情を知ってもらう必要があります。

そこで力を発揮するのは、いろいろな人が見る映画やドラマです。
ストーリーで語ると拒否反応が小さく、役者さんを通して自然に共感を得られたりします。

ただ、お涙頂戴みたいな ひたすら同情を誘うために障害を利用したドラマや、障害を乗り越えたことを美化して まるで障害者が1人で乗り越えたみたいに描いたドキュメンタリードラマなどは、障害への誤解が生まれるので、あれは迷惑かなと思います。

そうではなく、きちんと描いてくれるドラマや映画は大歓迎です。
そういう意味では、私は最近のドラマには好感を持っています。
賛否両論はもちろんあるけれど、聴覚障害のことを調べて描いてくれていると感じるからです。

2022年秋に放送された『silent』は中途失聴者の苦しみを描いていました。
健聴者の多くは恋愛ドラマとして見ていたけれど、聴力を失う孤独やコンプレックスは 多少は感じてもらえたのではないかと思います。
最後に障害者の好感度を引き下げた残念な場面はあったものの、聴覚障害をいろいろな角度から捉えようとの努力は嬉しく感じました。

2023年に入って放送された『星降る夜に』は聾者であることを敢えて普通に捉えているところが良かったと思います。
周りが配慮することで 聴こえないことに抵抗を感じさせない状態にすることは 私達が目指したい社会でもあります。
聴こえないから遮断するのではなく、聴こえないなら「スマホで伝えよう」「ジェスチャーで伝えよう」「書いて伝えよう」「手話を覚えて伝えよう」など、伝える手段がいろいろあることを知ってもらえるだけで聴覚障害者としては嬉しいです。

この冬から放送予定の『デフ・ヴォイス 法廷の手話通訳士』は、身近な聴覚障害者ではなく、外からは見えにくい問題に踏み込んでいくと思います。
テーマは少々重いけど、聴覚障害は単に聴こえない障害というのではなく、コミュニケーションの問題が大きいことを知ってもらえたらいいなと思っています。

何年か前に、幼少期から中学校まで英語のみで教育された子どもが、高校で日本の学校に入ったら同級生と馴染めなくて苦労したドキュメンタリーを見ました。
英語で思考することを幼児期から徹底的に教え込まれると、英語で思考する人に育ってしまいます。すると日本語で思考する人と感覚のずれなどが生じるようで、友達の雑談についていけず、孤立したそうです。
日本で暮らすなら 幼少期は日本語で育てた方が良いというような話だったと思います。

そう言われても、生まれつき聴こえない人は言葉を音声で覚えることはできません
音声が聴こえないので、目で見て分かる手話が言語になるのは自然のことです。
そして 聾者が使う日本手話は日本語ではありません。
日本手話を使う聾者は、文法も表現方法も日本語とは異なる言語で育った人達であり、そこに聾文化の主張が生まれるのは当然のことなのかもしれません。

聴覚障害がややこしいのは「聴力の問題」「言語の問題」が絡むからで、「音声で育った人」「正確な音声を聴いたことなく育った人」のそれぞれに、第一言語が「日本語」の人と「日本手話」の人が混じり、更に時代によって「教育を受けた人」「受けなかった人」、更には「教育の方法の違い」もあり、単純に身体障害では括れない複雑さがあります

この言語の問題はドラマ『デフ・ヴォイス 法廷の手話通訳士』でも触れると思います。
難しいテーマなだけに、ドラマでどのように伝えるのか、どこまで伝えるのか楽しみです。

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■手話について思うこと

最後に手話のことを少し話させてください。
現在日本で使われている手話には「日本手話」と「日本語対応手話」の2種類があります
「日本語対応手話」は名称の通り、日本語に対応した手話です。
小説の中で聾者が主張している手話は「日本手話」です。
日本手話は 日本語とは文法が異なるので、外国語ほど違うと思った方がよいかもしれません。

進行性難聴の私は完全失聴に至る可能性があるので手話も使えるようにしておきたいと思って現在手話を勉強中です。
但し、普段は健聴者しかいない環境なので覚えても使う機会がないままに忘れてしまい、ずっと初心者を繰り返しています。(^^;)

そんな感じなので、機会があれば手話の講座に参加していますが、参加して戸惑うのは、手話の表現が講師によって違うことです。
一番戸惑うのは日本手話を教える講師と日本語対応手話を教える講師がいることです。
例えばよくあるのが、日本語対応手話の講師に教えてもらった手話を 日本手話の講師の前で使うと「違う」と直させられます。

これ、本音でいうと「どっちかはっきりしてくれ~」と思います。

更に手話は地域によって違う表現をすることが多く、1つの単語に4つも5つも手話表現があってどれでもよいと言われたりします。
これは、音声でいうところの方言しかない感じで、方言を全部覚えろと言われているみたいで、どれを使おうかと戸惑ってしまいます。
なぜバラバラなのかと質問したら、元々は各地の小さな集落内で使われていたから少し離れただけで違う手話表現なのだと聞きました。
そして共通の手話(標準語)はないそうです。
新参者や特定の地域に根付かない者が学ぶにはとても不便です。

日本語には標準語があります。
取りあえず、教科書で使われている言葉や、ニュースのアナウンサーなどが使っている言葉であれば日本全国で通用します。
手話も正式な言語になるならば、できれば 全国で通用する分かりやすい標準手話を決めてほしいと、これは学び始めた時からずっと思っています。

『デフ・ヴォイス』の登場人物の中には、日本手話を使う人と日本語対応手話を使う人がいますが、ドラマの中でこの2つを使い分けるのかも興味津々です。
そういう違いも感じられたらいいなあと期待しています。
どのように仕上げて来るのか楽しみです。

私が持っている文庫本を紹介しておきます。
持ち歩きやすいサイズなので、興味があればぜひ読んでみてください。

今回も最後まで読んでくださりありがとうございました。
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[前回のナンチョー日記]
  ↓
ナンチョーな私の気まぐれ日記(30)聴覚障害の認定基準について思うこと

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