読後感想 第4回
「デフ・ヴォイス 法廷の手話通訳士」 丸山正樹著
私は聾者(ろうしゃ)のことを知りたいと思っていた。
知りたい 知りたいと思っていたら、おもしろい本に出会った。
この本は、聾者をテーマにしたミステリー小説なのだが、ミステリーよりも私は自分が知らない聾者のことがすごく分かりやすく書かれていたので、そちらの方に感動した。
ネタばれになるので 小説のあらすじには触れず、知識として刺激になった「聾(ろう)」のことだけ感想を述べようと思う。
私が「聾」に強い興味を持ったのは、同じ聴覚障害者でも「聾」の定義が人によって違うことを知ったからである。
私は聴覚障害者に会う機会が無かったこともあって、聾という言葉の意味を正確には分かっていなかった。なので、聾の意味を考えた時に最初にしたのは辞書を引くことだった。そして、辞書では聾者(ろうしゃ)とは「耳が聞こえない人」となっているので、私は聾者とは失聴している人を指す言葉だと思っていた。
実際、「身体障害者障害程度等級表(身体障害者福祉法施行規則別表第5号)」の聴覚障害の2級(聴覚障害に1級は無い)の説明には「両耳の聴力レベルがそれぞれ 100デシベル以上のもの(両耳全ろう)」と書かれており、やはり聾(ろう)とは殆ど聞こえない人の総称で使われている。
ところが聴覚障害者の間では、失聴しているのに「あなたは聾じゃない」と言われたりすることがあるようで、最初は生まれつきか そうではないかで分けているのかと思っていた。だが、生まれつき聞こえない者同士でも「あなたは聾じゃない」と言われて口論になるケースもあると聞き、ならば「聾って何だろう?」とずっと疑問に思っていた。
この小説はまさにその疑問に答えてくれているので、私は小説の謎解きよりも、現実の謎解きの方に心を奪われてしまった。
そういう意味では、この小説は2つの謎解きをしている面白さがある。
ミステリー小説としての謎解き、そして知らない世界(謎)を知るという意味での謎解き。
物語は手話通訳士の試験の場面からスタートする。
主人公は、聾者の両親から生まれた聴こえる子供(これを「コーダ」という)で、まさに聴者と聾者の間にいる存在である。
そして、聞こえる者と、聞こえない者との狭間にいるコーダにも また別の苦悩がある。
登場人物の中には、聴こえの立場の代表的パターンが一通り揃っているような感じで、「普通に聞こえる人」がおり、聞こえない人も大きく分けて「日本手話(聾者の間で生まれた日本語とは異なる文法を持つ手話)を母語とする人」と「日本語対応手話(日本語に合わせた手話)を使う人」がいて、そして「聾者の間に生まれた日本手話を使う聴者(コーダ)」がいる。
それぞれの感情が非常によく伝わってきて、この辺りの設定が絶妙だなと思った。
特に、主人公を聴者と聾者の狭間で悩むコーダとしたことは、視点がどちらにも寄り過ぎないので、そこが複雑な世界を抵抗なく読めるものにしたと思う。
一般に聾者の視点に寄り過ぎては聴者には抵抗感が生まれることがある。そして、聴者の視点に完全に立ってしまうと障害をありのままの現実として描くのが難しくなる。
それがコーダを主人公とすることで、聴者側が感じる面倒さも、また聾者に対する聴者の差別的言動への怒りも、平等な目線で描けているのである。
そして私にとって最大の謎だった聾者の定義についても、なぜそんな揉め事が起こるのかが分かりやすく書かれていて、この本を読む前と読んだ後で 聾(ろう)への理解度は全然違うものとなった。
こういった聾を取り巻く背景が、ミステリー小説の中で分かりやすく説明されており、聾に興味が無い人でも気軽に読めるので、ぜひミステリー小説好きの人にも読んで欲しい本である。
もちろん、聾のことを知りたい人には、お薦めの本である。
聴覚障害者の最大の問題(障害)はコミュニケーションの問題である。
普通に聴力を持って生まれたならば、人は言葉を耳で覚える。文字が書けなくても話すことは自然に身につく。
だけど、言語を獲得する前から聴こえない子供の苦労は想像を絶する。
同じ聴覚障害でも、音声言語を獲得した後に失聴した人は話すことに不自由はない。そして日常使う言語は当然に日本語である。(日本手話を使うようになったとしても第一言語は日本語である)
問題は言葉を音で聞いたことがない先天的な失聴者の場合である。今は口話の訓練により(発音の良し悪しは別として)聾者も話すことができる。だけど彼らにとって音声言語は聞くのではなく目で読み取ることであり、話すということは人に教わった通りに体を操っているに過ぎず、健聴ならば何の苦労もなく当たり前にできるコミュニケーション手段(音声言語のやり取り)が、彼らにとってはとても不自然なことなのである。
彼らにとって自然な言語は、見ることで自由に表現できる手話であり、これは私達が音声日本語を覚えるのと同じく、自然なコミュニケーション手段(言語)だと言える。
さて、なぜ聾者同士で、「聾」の定義でもめるのか・・・。この複雑で難しい問題に対して、この本は分かりやすく説明していて、しかも小説の流れの中で説明しているので退屈せず興味深く読むことができる。
詳細は本を読んでいただくとして、私がここで話したいことを理解していただくのに必要なことだけ簡単に説明すると、「日本手話」は聴こえない人達の中で生まれた、日本語とは全く異なる文法を持つ言語。そして言語が異なるというのは文化の違いでもある。聾者の定義を「日本手話を第一言語とする人」としたい人達は、聴こえの問題ではなく、言語(文化)で区別したがっている。
過去の歴史を振り返れば、聾者は決して聴者と同格に扱われてきていないし、聴者は聴者の目線でしか聾者を見ようとしない。だから、聾者にとっての言語(手話)を強制的に奪って口話を押し付けたりといった酷いことをしてきているのである。だから、押さえつけられたものが爆発してもおかしくはない。
ただ、突然、聾者の定義を勝手に変えて「聾者は障害者ではない」とまで主張されると、これはこれでいろいろ問題が起こる。
小説でも、この一部の聾者の主張について、様々な問題の声が上がっていることにも触れているが、私も大きな問題だと感じたことが2つあるので、それについて述べたいと思う。
ちなみに、小説はフィクションのため、聾に関わる組織名や人物名、その他名称は架空である。この辺りは実際のところを確認しておきたかったので、インターネットでいろいろ検索してみた。「ろう文化宣言」で検索すると この問題に関して書かれたモノがいくつか出てきて、主張の内容や問題提示の内容は、小説の話とだいたい一致する。私は身近な聾者同士の言い争いの内容から、ずっと「聾とは何?」との疑問を抱えていたが、この小説のおかげで揉め事の発端は「ろう文化宣言」にあるらしいことが分かった。現在、その内容がどのような形で聾者に伝わっているのかは分からない。だけど、理由を説明することなく一方的に「あなたは聾者ではない」と聾者を仲間外れにする人が現実に存在している背景には、この「ろう文化宣言」が影響しているのは間違いないだろう。少なくとも 聾者の中で意識(認識)の違いが生じていることだけは確かである。
以下は、この小説をきっかけに知ったことと、現実に私が耳にしている聾者同士の個人レベルの揉め事から、問題だと感じたことを述べたいと思う。
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■問題点1:聾者が同じ仲間だったはずの聾者を仲間外れにしていること。
1つ目の問題点は、聾者が同じ仲間だったはずの聾者を線引きしていることである。
彼らの主張は、単に手話を使う人を聾者としているのではなく、「日本手話」を使う人のみ聾者と認め、全聾であっても「日本語対応手話」を使う人は聾者ではないと言う。
だけど「自分は聾である」と思っている人は日本手話を使える人だけではない。
生まれた時から聴こえず、言語の獲得に苦労してきた人の多くが自分を聾だと位置づけている。
先天的に聴こえない人が言葉を獲得する苦労は日本手話を使わない人も同じである。それは同じ失聴者でも 言語獲得後に失聴した中途失聴者とは異なる苦労である。
私の勝手な想像だが、「私は聾である」と言う人の多くは 聾という名称に 言語獲得に苦労した思い、もしくは子供時代の苦労の感情が入っている気がするのである。なぜなら3~6級レベルの難聴者でも、生まれつきの人の場合、自分を聾だと言う人がいるからである。その人達は綺麗に発音できているのに「私の発音はおかしい」と言う。聴こえていても正しい音が聴こえないことから来るコンプレックスである。こういう反応を見ていると正しい発音を聞いたことがある人は「聾」ではないのかもしれないと思うのである。(念のために言っておくと、私が知っている難聴者は周りが聴者なので日本手話を使う人はいない。)
もちろん、中途失聴者の中にも自分は聾であると思っている人もいる。
公の定義が聴こえないことを指すのだから、それも間違ってはいない。
そもそも 耳が聴こえない人が、自分のことを聾と思うのも、聾と思わないのも、それは個人の自由で良いと思う。
揉め事が起こる最大の要因は、全く異なる「文化(言語)の問題」と「聴覚の問題」を一緒くたにしているからである。
第三者の私から見ると、文化(言語)の主張がしたいならば 別の名称を使えばいいのにと思ってしまう。逆に聾の定義を正式に変えてしまえば問題は解決するのではとも思ってしまう。
だけど、聾者にとって「聾」という名称は捨てがたい愛着と強いこだわりがあるのだろうし、強い思いを持つ人がどういう人達なのかは私には分からない。
ただ1つだけはっきりしているのは「聾」という名称に所属意識を持っている人は、日本手話を使う人だけではないということである。
この先天的に聴こえない人達の苦労は、手話の種類には関係ない。生まれつき聴こえない人は「日本手話」を使おうが、使わなかろうが、皆、苦労しているのだ。
親が聾者で日本手話を使うなら、日本手話は自然に身につくだろう。でも、多くの聾者や難聴者の両親は健聴なので手話を使わない。そんな環境で日本手話が上手になるわけがない。ましてや聾学校が長い間、日本手話の使用を禁止してきたのだから、日本手話を習得する機会なく育った聾者はとても多い。
同じ聴こえない苦労、言語を獲得する苦労、また聴者と同じにはなれないコンプレックスや、差別的な嫌な思いを味わうなどしてきた者に対して「あなたは日本手話が下手だから聾者ではない」などと悲しい発言をする聾者がいることはとても悲しいことである。
そしてその背景には「ろう文化宣言」というきっかけがあったということを この小説で知り、「聾とは何か?」の疑問に対するモヤモヤは取れたものの、気持ちの面ではスッキリしない。
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■問題点2:聾者が「聾者は障害者ではない」と主張していること。
2つ目の問題点は、聾者自身が「聾者は障害者ではない」と主張していることである。
現在の公の定義では、聾者とは「両耳の聴力が100dBを超える聴こえない人」を指しているのである。辞書を引いても「耳が聞こえない人」以上の説明はなく、どこにも言語のことに触れた記述はないのである。
だから聾者が使う言語は日本語だろうが英語だろうが関係ない。ましてや日本手話と日本語対応手話で聾者か否かが決まるなんてことはあり得ない。
この定義が変わっていないのに、聾者が「聾者は障害者ではない」と主張することは、聴覚障害に対する社会への働きかけ(改善)のブレーキになる可能性があるので、多くの聴覚障害者にとっては迷惑なことである。
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■言語(文化)の問題と、聴覚の問題は、切り離して主張して欲しい。
ここからは聴覚障害者の1人として、思ったことを正直に述べようと思う。
私が今一番強く思っているのは、どのような形でも構わないので できるだけ早期に「聴こえの問題」と「日本手話の問題」は切り離して欲しいということである。
なぜなら、何度も言っているが、今の聾の定義は公には「聴こえない人」なのである。なのに、重度の聴覚障害者である聾者が「聾者は障害者ではない」などと主張すれば、何の事情も知らない人は 聴覚障害者は「聴覚障害を障害として扱って欲しくない」と思っていると解釈してしまうからである。
でも 現実は違う。聾者の多くは障害者としてフォローを受けており、フォローが打ち切られたら多くの聾者は困窮するだろう。
日本の聴覚障害は認定が厳しい。障害者に認定されないために何のフォローも受けれず苦労しながら自力で頑張っている難聴者は非常に多い。多くの難聴者は社会で生きていくために 社会的配慮を必死に求めているのである。
それなのに、情報保障や障害者雇用枠、その他いろいろフォローを受けている聾者が「なぜに配慮を求めて必死な他の難聴者の妨害をするのか?」と思うのである。
だから、主張するのは構わないが、聴覚の問題とは完全に切り離して主張して欲しいと、これは非常に強く思っている。
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■社会に対して思うこと。
同時に、社会に対して思うこともある。
彼らがなぜに主張するのか、自分が生まれた時から聴こえなかったらどうなのか、それは皆も考えるべきなのである。
聴こえない人から手話を取り上げ、無理やり口話を押し付けたり、今までさんざん 人権を踏みにじってきたと思う。
何より私もだが、そういう人達がいることに目を向けることなく、知ろうともしなかった。
時として、彼らの主張に視野の狭さを感じることもある。
だけど、そういう人がいることを知ろうともせず、その人の立場になって考えることもせず、簡単にレッテルを貼って知らん顔の私達の心も また とても狭いと思う。
彼らの「聾者は障害者ではない」との主張に込めている思いは、聴覚問題ではなく、人権・人格の問題、すなわち、聴者とは言語が異なるだけで人間としては対等だとの叫びだと思う。
そして、それはその通りだと思う。耳が聴こえないため上手く話せなくても、耳から情報が入らなくても、一般の聴者より何倍も賢い人だっている。外から見ただけでは分からないが、脳内では音が聴こえない分、視覚や記憶、勘などを使って、脳はフル回転で欠如している音情報を埋める作業をしているのだ。
聴こえない、話せないから馬鹿にするということは絶対にあってはいけないのである。
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感想は私が知りたいと思っていたことを中心に述べたが、小説では 普段想像することすらない問題をテーマに扱っているので、知らない世界を知る面白さがあり、同時にすごく考えさせられた。
毎回思うが、障害の問題は情報を探すのが大変である。
それだけ健常者の目につきにくいということだ。
これは社会そのものの姿勢を表しているとも言える。
国や自治体の意識が高まれば、障害者の情報も表に出やすくなると思う。
社会の姿勢が変わって、隠れた問題点が浮上することを心から願う。
この小説には続編もある。
さっそく そちらも読もうと思う。
余談だが、この小説は2011年刊行で、その頃は まだ「日本手話」は言語として認められていなかった。その後、自治体レベルではあるが徐々に言語として認める動きが見られ、今は全国にその動きは広がっており、少しずつでも前進している。
現在どのように活動が進み、どんな問題が浮上しているのか、また、1995年の「ろう文化宣言」から随分経つが、現状はどうなっているのか私自身も折々調べてみたいと思う。
(紹介記事)
【デフ・ヴォイス 法廷の手話通訳士】 聾者のことを知りたい方にお薦め
(続編はこちら)→【龍の耳を君に(デフ・ヴォイス新章)】前著「デフ・ヴォイス」に続きお薦め