【先天的に聴こえない聾(ろう)者】と【中途失聴者】では抱える問題が大きく違う。「ろう者の祈り」を読んで

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書籍・資料

読後感想 第7回
「ろう者の祈り 心の声に気づいてほしい」 中島隆 著

何となく手にした本。
そして、ちょっと衝撃を受けた本。
この本は2016年と2017年に朝日新聞に連載された「ろう者の祈り」を加筆・再構成した本で、聾者や、聾者をサポートしている人達の取材を基に書かれている。
※聾者(ろうしゃ)とは耳が聴こえない人のこと。ここではその中でも手話を第一言語としている人を指す。

私はここ数年、聴覚障害について いろいろ調べたり、人の話を聞いて、聾者のことも少しは分かったつもりでいたが、この本を読んで 全然理解していなかったことに気がついた。
一般に健聴者が「聴覚障害」と聞いて思い浮かべるのは単純に耳が聴こえないということである。中途難聴者も聴こえの不便の悩みが大半である。ところが先天性の聾者の場合はもっと複雑だ。言語の獲得に大きく影響するからだ。
この本を読んでいると、聾者の立場の弱さがとてもよく分かる。聴者の社会で聾者が追い詰められていく様子が リアルに語られていて 胸が痛くなる。
中途難聴の私は、健聴者ではない。だけど聾者でもない。そして過去は変えられないので聾者になることもない。だから、聴者と同じように聾者のことを誤解している。たぶん多くの中途難聴者も私と同じで、聾者を真に理解しているわけではないだろう。
だから、健聴者だけでなく中途難聴・失聴者にも読んで欲しいと思った本である。

私は、現在、高度難聴で、聴こえない不便さを実体験中である。
難聴を発症したのは20代なので、私は言語を耳で獲得した。
そして、ゆっくり進行したので仕事のスキルも健聴者に近い状態で磨いてきた。
聴覚障害者としては恵まれていると思う。

そして私は、数年前まで難聴者との交流は まったく無かった。
周りに聴覚障害者がいなかったので、私が長い間 考えていた聴覚障害者の問題は耳が聴こえない不便さのみだった。

その後、手話に興味を持ったことから、日本手話のことを知り、はじめて聾者のことを考える機会が生まれた。
私が難聴になって痛感したのは、健聴では絶対に分からない不便があるということだった。だから、生まれた時から耳が聴こえない聾者にとって言葉を覚えることがいかに困難なのかは、耳で言葉を覚えた私には絶対に分からないだろうと思っている。 それが分かっているので、自分の視点で決めつけてしまわないように気をつけていたつもりだったのだが、決めつける以前に知る努力をおこたっていた。
私は、聾者が使う手話が、日本語と異なる文法だということを知っている。
それを知ったことで、聾者が日本語を苦手なことも理解したつもりでいた。
だけど、文章については疑問を残していた。それなのに勝手に分かったつもりになっていたのだ。

文章の話に入る前に、少し音声言語の話をしておく。

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正しい発音をするためには、正確に音を聞き分ける聴力が必要

聾者の多くは口話教育を受けているので、発音の個人差はあっても、日本語を話すことができる。
日常で使っている人もいれば、うまく発音ができないのでほとんど声を発さないという人もいる。

健聴者は 自分が正しい発音をしているかどうかを確認するのにいちいち口の形など意識しない。耳から聴こえる自分の声を聴いて発音する。
口の形を意識することがあるとしたら、日本語の発音にないため聞き分けが難しい外国語の発音(例えば 英語のLとRなど) を覚える時ぐらいだろう。

完全に失聴すると発音が徐々に崩れていく。これも、自分の声が聴こえないため 発音の狂いを正すことができなくなるからである。
正しい発音をするためには、正確に音を聞き分けることのできる聴力が必要なのである。
だから、一度も言葉を聴いたことがない聾者が正しい発音ができないのは当然で、それよりもむしろ口の形だけで言葉を覚えていることの方がよほどすごいことなのである。

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聾者は「日本語」の読み書きが苦手

今回、読んだこの本には、聾者の辛い体験が綴られている。
聾者をサポートしている1人(聴者)が、手話通訳士であり、外国人に日本語を教える日本語教師の資格も持っている人なので、その人に相談に来る聾者の話が主に取り上げられている。
耳が聴こえないと、学校で学ぶことも一苦労。
社会に出たら出たで、日本語の文章がおかしいと職場でひどく馬鹿にされたり、メールの依頼文の末尾に「よろしくお願いします」を書き添えなかったために生意気だと誤解された人の話も出てくる。
そういった聾者の悩みを通して、なぜ聾者は間違った日本語を使ってしまうのか、また、それならばどうすればいいのかが分かりやすく書かれている。

この聾者の文字の読み書きについては、私も誤解していたところがある。
あまり自分の不理解な姿は書きたくないのだが、これを書かないと私が何に気づいたかも書けないので、正直に書くことにする。
実は、何年か前に間違った日本語を使っている聾者の文章を目にしたことがある。
初めて見た文章にとても戸惑った。
なぜなら、助詞がめちゃくちゃで、何が言いたいのかよく分からない上に、ぶっきらぼうで大変失礼な文章だったからである。
私は最初にそれを読んだ時、学力がある人が書いたとは思わなかった。
後で聾者が書いたのだと知ったのだが、その頃の私は「日本人ならば日本語を書けて当たり前」との感覚だったので、あまりに稚拙な文章に 能力的なところを疑ってしまった。今思えば「ごめんなさい」なのだが、当時は聾者についての知識はゼロ。だから、耳が聴こえなくても、文字は目で見ることができるものなので、文章を書けないということが理解できず、別の問題を抱えているのかなと考えてしまったのである。

その後、いろいろ調べて、日本手話は日本語と文法が異なることを知り、日本手話を第一言語としている聾者にとって日本語は外国語に近いということも理解した。だから、聾者が日本語を苦手だということは何となく分かったつもりになっていたのだが、実は頭の片隅ではずっと疑問を持ったままだったのだということに、この本を読んで気づいたのだった。
それは、こんな疑問だ。「聴こえないのは仕方がない。だけど文字は見える。声の代わりに手話を使ったとしても、学校でずっと目にしてきた文章は日本語のはず。なのに なぜ文章を正しく書けないのだろう?」「正しい文章を書ける聾者もいるのだから書けない人は勉強が嫌いだったのだろうか?」と、そんな疑問である。
多分、聾者を知らない聴者の感覚は、これに近いと思う。

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聾者が文章を正しく書けない理由

聾者は言葉を音声で聴いたことがない
聾者が言語として使っている日本手話には「が」「は」「を」などの助詞がない
なので、聾者は普段の会話で助詞を使うことがない
使うことがないから、助詞の使い分けを間違っても、おかしいと感じることができない。だから、間違っていても気づけないのである。
確かに私が見た文章も助詞の使い方がおかしいために、どれが主語なのかが分かりづらく、言いたいことがよく分からなかった。

聴者は日本語を耳で覚えるので、助詞の使い方は自然に覚える。
私達にとって日本語は学問ではなく、体で自然に覚えた言葉。だから、たとえ「助詞」の意味を知らなくても、普通に助詞を使って会話ができるのである。
先述したように、聾者が日常使っている「日本手話」は日本語とは文法が異なる。聾者にとっての第一言語は「手話」で、「日本語」は第二言語となる。
要するに、手話が第一言語の聾者にとって、日本語は外国語なのである。

私達は英語やフランス語など外国語を習う時、文法の基礎をきちんと教えてもらう
もし英語の基礎を全く知らないのに、英文だけ渡されて、いきなり読めと言われたら途方に暮れるだろう。ましてや書けと言われたならば、文法が分かっていないので単語を適当に並べただけのおかしな文章しか書くことはできないだろう。
それと同じように、言葉を聴いたことがなく、手話という別の言語を使っている聾者は、日本語の文法を基礎からきちんと教わらなければ日本語を正しく書くことはできないのだ。
ところが 現状は聾学校にも日本語を文法的に教えることができる教師はいないそうだ。
これを読んでいる人の中には「国語があるではないか」と思った人もきっといると思うが、国語は日本語を知っている人が学ぶもので、日本語を知らない人が日本語の基礎を学べるものではない。
思い返してみると、小学校1年生の時に、日本語の話し方から教わったわけではない。日本語を話せることを前提に、読むことと、書くことから教わった記憶がある。文法も習いはしたが、話せる人を対象とした内容だったと思う。日本語を知らない人が国語で日本語の基礎を学ぶのは確かに困難だと思う。

考えて欲しい。聾者は聴こえないから日本語を耳で覚えられない。これは学校生活でも同じ、社会に出ても同じ、決して耳から会話が入ってくることはないのである。
日本語の使い方は、それこそ勉強で身につけるしかないわけで、国語しかない今の教育内容だと、文字だけを見つめて手探りで勉強しているに近いと思う。単語は辞書を引けば何とかなる。だけど言葉の言い回しだけは日本語を聴いたことがない人にはお手上げだ。間違いを正してくれる人がいなければ、聾者は自分が間違っていることに気づくことさえできない。何かが違うような気がしても、どこが違うのかが何となくでも分からなければ質問もできない。ひたすら文字を覚え、単語で意味を理解する。その繰り返しで勉強してきたのではないだろうか。
気の毒なことに、多くの聾者は日本語が苦手なまま社会に出ることになるのである。

これは中途難聴・失聴者にはない大きな苦しみである。
日本語を習得している人ならば、例え耳が聴こえなくても、文章で言いたいことを伝えることができる。発声も一度覚えたならば、多少発音が狂ったとしても声で伝えることも可能である。
中途難聴・失聴者の苦しみは情報保障が行き届いたならば、かなりカバーされる。
ところが、手話を第一言語とする聾者の問題は聴こえないだけでなく、言いたいことを聴者にうまく伝達する術が身についていないので、生きて行く上でとても大きなハンデとなる。

先ほどメールの依頼文に言葉が足りなかったために聴者を怒らせた聾者の話を書いたが、これは手話と日本語の表現が違うための誤解で、手話という言語から見ると特に不自然なことではないようだ。
だけど、日本語が当たり前の聴者には、それがとても「非常識」に映る。
まさか日本育ちの日本人が日本語を知らないとは思わないので、当然、おかしな文章や失礼な文章を書けば、評価はガタ落ち、下手すれば人間性まで疑われることになってしまう。
そして、一旦「非常識」というレッテルを貼られると誰も相手にしてくれなくなるため、どこが間違っているのか知りたくても教えてもらうことができない。そうなってしまった聾者は永遠に何を間違ったのか分からないまま、どんどん孤独に追いやられていくことになる。

もし、助詞を間違えたおかしな文章や、丁寧語・尊敬語・謙譲語を上手く使えていない文章を、日本語があまり得意ではない外国人が書いたとしたらどうだろう。
少なくとも、馬鹿にすることはないだろう。「どこがおかしい?」と聞かれたら教えてあげもするだろう。
繰り返すが、手話を第一言語とする聾者は、文化も言語も外国人ほどに違うのだ。そのことは日本に住む全員が知る必要があると思う。それを知らないから聾者を理解しようと努力することなく、異端児を見るように線を引いてしまったりという残酷なことをしてしまう。
但し、皆が知れば 問題が解決するわけではない。
やはり、目指すは、聾者全員が 日本語を普通に書けるようになることだと思う。

だから、日本語を文法からしっかり教える教育体制を早急に整える必要があるし、もっといろいろなところで手話通訳を活用する必要もあると思う。
忘れてはいけないのは、聾者は耳で言葉を覚えることはできないのだということ。健聴者は耳で外国語を覚えることができるが、その方法は聾者には無理なので、学問的な配慮が必ず必要だということ。
私達は誰でも得手不得手がある。聾者も同じで得手不得手がある。
数学は得意だけど、語学は苦手という人もいる。
日本語は日本で生きて行くためには絶対に必要な知識。
語学が不得手な聾者もその人なりに努力をしている。
努力しても なお 聴こえない人にとって、日本語の習得は難しいのだということを私達は知らねばならない。

この本はいろいろな聾者の体験談で構成されているので読みやすいです。
また、日本語教師の視点が入っているので、 問題点も分かりやすく書かれています。
興味があればぜひ読んでみてください。
おすすめです。

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