ナンチョーな私の気まぐれ日記(17)「授業で私を当てないで」

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ナンチョーな私の気まぐれ日記

社会人になってから難聴を発症した私は、難聴発症後にもう1回大学に行きました。

私の場合は子どもの時に健康な耳で義務教育~大学まで一通り終えているので、はじめて学校で学ぶ難聴児の苦労に比べれば苦労の内に入りません。
それでも困ったことはいっぱいありました。

ちなみに、ここで語る私の話は、講習会や意見交換会、会議などでの苦労に近い話になります。

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■勉強嫌いだった昔の私

私は学校の勉強が大嫌いな子どもでした。
高校や大学の時は興味の無い授業の時は寝ていたし、大学では後ろの目立たない席にいつも座っていました。
単位目的で出席するだけのやる気のない学生だったのです。
当時の私が授業中に当てられて返答に困る時は、分からないか、授業を聴いていなかったからで、完全に自業自得です。
ところが難聴になると、自業自得ではない“困った”が生じて苦労します。

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■中等度難聴の時の授業体験

2度目の大学は働きながらなので、通学ではなく、通信を選びました。
難聴なので通学だと音声の聞き取りに苦労するのは分かっていたし、通信なら私でも学べるだろうと思って選択したのですが甘かったです。
スクーリング(対面授業)や実習が予想以上に多くて、少々後悔しました。

ちなみに当時の私はまだ補聴器を使っていませんでした。
高音は失聴し、中音も低下していたけれど、低音が普通に聴こえていたので、聴こえる音量はそれなりのボリュームでした。
だけど、著しく低下している音や喪失している音があるため、言葉の聞き取りはだいぶ落ちていて、声の高さや質によっては“全く聞き取れない”人が1~2割ほどいるという感じでした。

講師がどんな声なのかによって 100%聞き取れない可能性もあるので、初回の授業はいつも大緊張でした。
そして、ボソボソ何を言っているのか分からない講師だったり、声は聴こえても自分の聴力と相性が悪くて全く聞き取れない講師だったりしたら悲惨でした。

また、話し手と距離があれば聴こえないし、一斉に話し合いが開始してガヤガヤ、ザワザワと騒がしい状態になると声が拾えなくて グループワークの時も苦労しました。

授業ではマイクを使っていることが多かったのですが、反響すると聞き取れないし、マイクの音質も悪かったため、講師の生の声が少しでも聴こえ、口の動きも見える前の席に座るようにしていました。

真剣に学びたいと思うと、音声の授業は非常に厳しいという事を ひしと感じました。

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■お願いだから当てないで!

私が一番苦痛だったのは、熱心に聴いていると思われて、授業中に突然当てられることでした。
前の席に座っているから当てられやすいというのもありますが、耳だけでは聞き取れないため常に講師を凝視している姿が、すごく熱心な生徒に見えるのも当てられやすさに繋がっていたと思います。

だけど、実際には それだけ集中してもほとんど聞き取れていません
“こういうことを言っているのかなあ”と想像するぐらいの理解で終わることも多く、その理解が間違っていることもよくありました。

ちなみに隣の人のメモが目に入ったり、後でノートを見せてもらうこともたまにありましたが、全く違って聞き取っていることも多くて、“自分の耳は信用できないなあ”と凹むこともしばしばでした。

健康な耳ならば簡単な聞き取りが、難聴になると至難の業になります。

私の場合、人の話を聴くというのは 耳で聴くというより、五感と第六感 総動員で、勘で理解しているというような感じです。

そんな状態なので、集中するために、最前列で講師の顔を食い入るように見てしまうわけですが、そうすると次第に講師と目が合うことが増え、突然「どう思いますか?」と当てられてしまうのです。

講師は何か言ってくれるとの期待を込めた目を向けてきます。
当てられた私は、質問が聞き取れなかったとは言いにくくて焦ります。
不自然な沈黙の時間が流れたあと、皆が注目する中で「質問が聴こえませんでした」という時の苦痛と言ったら相当なものです。

「質問が聴こえなかった」との返答に対し、講師は失望のような表情を浮かべ、すぐに次の人を当てます。
たぶん、『話を聞いていなかった』とか『何も考えていなかった』とか、質問によっては『こんなことも答えられないのか』と思われたかもしれません。
いずれにしても、講師のガッカリな表情に、私の小さなプライドは傷つき、とても嫌な気持ちになりました。

何度かこういう目に遭っていると、授業中に講師と目が合いそうになると俯くようになってしまいました。
俯いている間は情報が入らないので、ますます授業の内容は分からなくなります。

そんなんで、授業の時は『頼むから、当てないで』といつも思っていました

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■「難聴だから」とはなかなか言えないもの

『難聴だと伝えたらいいじゃないか』と思われた人もいるかもしれませんが、まさかここに難聴者がいるとは誰も思っていない所で、「難聴」とはなかなか言い出せないものです。

難聴だと言いやすくなったのはここ数年のことで、それまでは難聴と伝えても配慮に繋がることは滅多にありませんでした。
特に初対面で難聴だと伝えると、急に線を引かれて、「いきなり差別待遇かあ」と後悔したこともありました。
そんなふうに 差別のリスクが高いと なかなか難聴だとは言えないものです。
当時は、親しくなってから 初めて「実は難聴で・・・」と伝えるのが精一杯でした。

その後の私は、徐々に初対面でも「難聴だから」と伝えられるようになり、単発で受けたい講習会などがあれば配慮できるかをあらかじめ問い合わせてから申し込むなどしましたが、悲しいかな配慮を断られた経験の方が多いです。

余談ですが、こんなこともありました。
過去の話ですが、数日間で構成された講座に参加した時のことです。
「難聴で 後ろの席だと声が届かないので、音源の近くに座られせてもらえないでしょうか」とお願いしたことがあります。
すると、お願いした事務局の人から「他の人も前の席に座りたいかもしれないのにあなただけを優遇するわけにはいきません」と断られました。
音源のそばでないと声が届かないのだと伝えても、「同じ料金を払っているのに、それは不公平が生じるからできません」の一点張りでした。
「料金を加算したら配慮してくれますか?」とも聞いてみたのですが、「特別扱いはできません」と断られました。
当時の私は泣き寝入りです。

ちょっと愚痴らせてもらうと、同じ料金を払って、全く何も得ることができなかった私こそ大損です。
ただ座っているだけの講習会に何の意味があるでしょう
世の中がこんな態度だと、参加を断念せざるを得ません

知識を広げたいと思った時、身体に不利があるだけで、世の中はとても不公平になります
ほんの少しの配慮もしてもらえないとなると、これは完全に締め出されたようなもので、こうやって学ぶ権利は奪われて行くのだなと身をもって感じました。

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■最後にお願い

難聴になると、それだけで 知識や技術を習得するチャンスが 物凄~く減ります。
健聴者と同じになれないのはよく分かっています。
だからこそ、 その分頑張って道を切り拓くために新たな知識や技術を身につけたいと思うわけですが、その頑張るための学びのハードルが物凄く高かったりします
これはちょっとした絶望です。

世の中は少しずつ改善していますが、それでも今も道は険しいです。

障害に合わせた対応が難しいのは分かるけれど、「これだけでも配慮してくれれば自力で頑張ります」と言っている人まで締め出したりしないでほしいと思います。

2016年4月に施行された「障害者差別解消法」により、あからさまな差別は減りましたが、意識が国民全員に浸透しているわけではないので、相変わらずトラブルを耳にします。

障害を負うと不自由さとの闘いになります。
だけど、障害があっても、知識や技術を身につければ 人生の選択肢は増えます
頑張りたい障害者はたくさんいます。
いつまでも、その学びのハードルが高いままで良いわけがありません

どんな状態の人であっても、頑張りたい人が頑張れる世の中になって欲しいと、これは心から願います。

今回も最後まで読んでくださり、ありがとうございました。

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[前回のナンチョー日記]
  ↓
ナンチョーな私の気まぐれ日記(16)目覚まし時計奮闘記

[次回のナンチョー日記]
  ↓
ナンチョーな私の気まぐれ日記(18)「補聴器をしても普通に聴こえるわけではない」①言葉の聞き取り

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