ナンチョーな私の気まぐれ日記(32)移動中の会話

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ナンチョーな私の気まぐれ日記

難聴になるととても寂しいという話は過去にしました。
ナンチョーな私の気まぐれ日記(2)「ちょっと寂しい難聴生活」

難聴とは基本的に孤独な障害で、この時に書いた「会話の輪に入れない寂しさ」や「楽しい飲み会が地獄」だというのは、健康な耳の人に囲まれて生活していると かなりの頻度で感じます。

今回はその他の寂しさや不便について話したいと思います。
書き始めるとキリがないほど浮かんでくるので、ここは割り切って、いくつか抜粋したものを数回に分けて話すことにします。
今回は乗り物絡みの話です。

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■車や電車での移動

車や電車で移動中に会話することがあります。
移動中の仕事の打合せ、友人と移動中の何気ないお喋り、会話の種類はいろいろですが、会話と言えば音声ですから、難聴者は騒がしい乗り物内の会話も苦手になります。

難聴の発症が軽度出発の進行性難聴の私は、徐々に車内の会話も不自由になっていきました。

全ての会話の中で何から苦手になったかを思い返してみると、車の中での会話だったかもしれません。
後ろの席に座っていると、運転席と助手席の人の声が聞き取りづらくなって、前の人がもたれている背もたれにしがみついて、背後霊のようにへばりついて会話するようになったのが、不便のはじまりだった気がします。

この頃は、まだ会話は音声オンリーでした。
騒がしい環境下で音声を拾うのは苦手になりつつあったけど、声さえ聴こえれば音だけで聞き取れていました。

だけど、私の難聴は進行性なので、じきに音声だけの会話は難しくなりました。

そうなると、走行中の車内は静かではない上に、顔を見て話ができないため、聞き取れないことが増えました。
やがて、誰かが話していることにさえ気づかないことも増えていきました。
音声が騒音にかき消されているため気づけないのです。
これはもしかしたら、低音のみ正常に聴こえていた私だから極端にかき消されていたのかもしれませんが、基本的に難聴者は騒がしい環境で音を拾う能力が著しく低下するのは共通で、騒音下の会話は厳しくなります

だけど 周りの人にはそれが分からないので、そばにいて聴こえていないということは理解してもらえませんでした。
なので、いくら難聴だと伝えても「車の中で話したのに」と 後から責められることがあります。
これ責められて悲しいというレベルの話ではありません。
発覚しただけマシで、全部聴こえていないので、皆がどれだけ大事な話を車内でしていたのか とても不安になります。
因みに、あとから「知っておくべき大事な話は無かったか?」と訊いても、大抵の場合「どの話?」となり、どの話かを示せない限り教えてはもらえません。

『健聴者の聞き返し』と『難聴者の確認』は全く違うのですが、普通に話せると全く聴こえていない事があるとは信じられないようで、健聴者の聞き逃し扱いにされてしまうのです。
そんなんで、何も聴こえない=情報白紙のまま、綱渡りで働くことも多々ありました。(今はさすがに音に反応しないレベルまで落ちているので「聴こえない」が通用するようになりましたが)
難聴は手帳の有無に関係なく、とても心細い障害でもあるのです。

車中では、冗談で盛り上がることもあります。
そんな時、場の空気を壊さないように表情だけは合わせますが、メンバーによっては寂しいを通り越して針の筵です。
これは、ナンチョーな私の気まぐれ日記(2)「ちょっと寂しい難聴生活」の中で話した宴会の苦痛に似ています。

なので、中等度半ばを超えた頃には、車で移動する時は「車に酔うからごめんなさい」と言って、仕事中の移動でも寝るようになりました。
起きていて聞いていると思われて失態するより、非常識な奴と思われる方が私にとっては気が楽だからです。

聴こえる人は勝手に入って来る音声を聴くだけですが、難聴者はそうではありません。
聴こえる音が不鮮明なため、不鮮明な言葉を解読するために相手に集中する必要があります。口の動きや表情、話の背景など全ての情報を瞬時に総合して勘で話を聞くので ものすごく疲れます。
そこまでの集中が必要なので、自分と関係ないと思えば、あえて人の話を聞くことはありません。
健康な耳の人なら 勝手に入ってくる音(話)で 自分に関係があるか否かを判断できますが、難聴者の場合は判断できる音情報自体がそもそも無いに等しいので、車内で話す内容はすべてスルー状態になります。
こればかりは、どう頑張っても配慮無しではどうしようもありません。
話ついでに お願いしておきます。
難聴者に話を伝えたい時は「今から重要な話をするから」と、視覚や触覚で注意を促してから話すようにしてください

話を戻します。
このように 私の場合は中等度の半ばを超える頃には 車中の会話はかなり厳しくなっていたので、そのことは何度も伝え続けましたが、理解してもらえませんでした。
健康な耳の人は騒音が煩くて聴こえにくい状態はあっても、聴こえる音は正常なので拾った音声は言葉の推察のヒントになります。
難聴になると音声が騒音にかき消されるだけでなく、微かに聴こえる音声も狂っているため聴こえる音は雑音です。さすがに雑音で言葉の推察は無理なのですが、この聴こえの違いが分からないようです。
理解してもらえていないということは、そばに居るだけで、情報を伝えたと思われ兼ねません。
聞いていたと誤解されて 訳の分からないことで謝る羽目に陥るぐらいなら、仕事中に寝る不届き者のレッテルを張られた方がマシという感じで 寝るようになりました。

実際、私は車酔いするタイプなので、聞き取ろうと集中すればてきめんに酔ってしまうから嘘ではありません。
ただ、寝たら失礼だと思う人と同乗している時は、これは寝るのも相当勇気が要るので迷うところです。

また、運転している人と2人だけの時も気を遣うので 取りあえず頑張ってみますが、口の読み取りが苦手な私は横顔で話されても分からないので、結局スムーズな会話にならなくて最後は申し訳ない気持ちでいっぱいになります。

なので、今では「酔うから電車で別で行きます」と同乗を避けています
皮肉にも「聴こえない」は何度伝えても理解してもらえないのに、「酔う」は直ぐに理解してもらえます。

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■好きだった”移動中の雑談”

昔の私は、仕事でも旅行でも、移動中の何気ない雑談が好きでした。
移動中に生じる会話は、普段あまり話さない人と仲良くなるきっかけにもなるし、意外な話を聞けたりして面白いというのもあって、飲み会と同様にこういう交流も好きだったのです。

今は移動中にスマホを触る人が増えているので、昔とは違うかもしれないけれど、今でも仕事で得意先に移動する時は、皆は車中で打ち合わせたり、帰りに仕事の感想を話すことは当たり前のようにやっています。
退屈しのぎに社内の噂話などをすることもあって、仕事仲間と親しくなるには、移動中の会話は重要だなと感じます。
そう感じても、聴こえないことには どうしようもなく、これはやっぱり悲しいです。

余談ですが、私の耳はなぜかタクシーが苦手です。
軽度の時から車の中で聴こえなくなることが頻繁にありました。
車の何かの音に、声を消されてしまうような感じなのですが、それが何なのか分かりません。
タクシーが信号待ちをしている時にそういう現象を起こすことが多かったので、アイドリングが影響しているのかなと思ったりしますが今も不明です。
どんな感じかというと、騒音で音がかき消されるのと違って、何かの周波数で耳が詰まったような気持ち悪い感じになります。
ほかの人も同じかなと思って聞いてみたことがありますが、皆はそんなことは生じないと言います。これは いったい何なのだろう?

ちなみに私は、車に比べると、電車の方が会話はしやすいです。
電車の場合は顔を見て話すことができるからです。
今はさすがに電車も厳しいので、そのため友達と一緒に帰るのも避けています
昔は帰る時に、同じ方向の友達がいると嬉しかったのですが、難聴が悪化してからは1人だとホッとします。
ホッとするのだけど、同時に寂しさも感じます。

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■自転車に乗りながら会話したいな

私は普段は自転車に乗りません。
だけど旅行先では移動手段に自転車を使うことがあります。

数年前、久々に旅行で自転車に乗りました。
3人である島に旅行に行った時、自転車で島を一周しました。
その時に聴こえない寂しさを思いっきり味わいました。
健聴だった時は、自転車に乗りながらしゃべれたので、移動しながら「あれ見て!めっちゃきれい!」と昔は感動のまま大はしゃぎしていました。
声を発することは今もできるけど、相手の反応は顔を見ないと分からないので、移動しながら会話する楽しみは完全に消失していました。
これもすごく寂しかったです。

それだけでなく、呼ばれても聴こえないので、私は2人の後ろからついて行くだけです。
先頭に躍り出たくても我慢です。
「なんで我慢するの?」と思われるかもしれませんが、それは同伴者に迷惑をかけるからです。
先頭を走ると後ろが見えないので、「待って」とか「止まって」と叫ばれても分からないからです。

これは実際に私も体験したことがあるので気を遣います。
難聴の友人たち8人で集まって食事をすることになった時のこと。
お店を探して繁華街を移動していた時、3人ほどの歩くスピードが早くて、先頭と後ろの集団が離れてしまったのです。
先頭の人を呼び戻すために大声を出したけど、やっぱり聴こませんでした。
聴こえないから彼らは立ち止まることなく、どんどん先に行ってしまいます。
彼らを呼び止めるために、私は走って追いついて、彼らの体に触れねばなりませんでした。

難聴で聴こえない私が先頭に立つというのは同じことを友人にさせるということです。
なので 私は普段の生活でも、集団で行動する時は常に人の姿が視野に入るように後ろを歩くことにしています
これは自分で自分に配慮しているわけです。
常にそうやって気を遣う生活は面倒ではあるけれど、自分の声が相手に届くだけでも有りがたいと思います。
もしも声さえも出せなかったら、一番後ろも困るわけです。

どの機能も失うとそれだけ行動が制限されます
失う不便を味わったことで、今持っている機能の有りがたさを感じる機会は増えました
そうは言っても、やっぱり失った機能の悲しみや寂しさは消えません。
自転車を走らせながら、何やら話をしている2人の姿を見ながら、私も「気持ちいいねえー!」と友達と共感し合ったり、「あそこで休憩しない」と相談できた昔に戻れたらなあと思ってしまうのでした。

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■音声は便利

当たり前で簡単に出来てしまうことほど、出来なくなると不便です。

当たり前に持っている機能は当たり前過ぎて 私も普段は出来るということを意識していません。
有って当たり前、出来て当たり前だと、無いことを想像しにくいのも分かります。
でもせっかくの機能なのだから、その機能があることに幸せを感じて欲しいと思います。

音声ってすごく便利です。
塀で姿が遮られていても声さえ届くなら、話ができるんですよね。
背中合わせに座っていても話せるし、パーテーションの向こう側の人と話できるのも聴こえているから。

余談ですが、トイレに入っている人に「先に行くよ」とか声をかけることがありますが、聴こえなくなるとそういう声掛けができなくて、これ結構 困ることがあります。
声をかけられる側の時、扉の向こうで何か叫んでいることは分かっても、何を言っているか分からない時はすごく焦ります。
そんな時は大慌てで急いで出るのですが、大抵は姿がなくなっており途方に暮れることになります。
ほんとに不便です。
不便を味わうと、聴こえるというのが超便利なことなのだと身に沁みます。

聴覚障害は、体は自由に動くけれど、人との交流面では問題だらけです。
聴力は失うとマジで寂しいので、聴こえる人は その機能を大事にしてほしいと思います。

今回はここまでにします。
次回も会話の不便について書きたいと思います。

今回も最後まで読んでくださり、ありがとうございました。
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[前回のナンチョー日記]
   ↓
ナンチョーな私の気まぐれ日記(31)『デフ・ヴォイス 法廷の手話通訳士』を久々に読んで

[次回のナンチョー日記]
  ↓
ナンチョーな私の気まぐれ日記(33)夜のお喋り

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